気が付けば朗朗介護(6) -悩み、苦しんだ分だけ 精神的な強さが持てた-

昭和54年4月、私は進学のため上京した。母もリハビリテーション病院での生活にようやく慣れてきたので、安心して家を離れることができた。4年後、卒業したら地元で就職しよう、その頃には母の体も良くなって家に戻っているだろう、そして元通りに近い生活を送れるに違いない。高校3年の1年間は、自分の人生にとってけして無駄ではなかったのだ。この時、私はそう信じて疑わなかった。

しかし、現実は厳しかった。私が上京し2カ月も経たないうちに、病院がとめるのも聞かずに父は母を退院させた。理由は「毎週通うのが大変だから」という身勝手な理由。そして母には、苦難の生活が待っていたのだ。

初めての夏休みに帰省してびっくりした。母の表情は暗く、正気が失せて見えたのだ。近所の人がいろんなことを教えてくれた。祖父母が母にとてもつらく当たっていること、気の毒で見ていられない、戻ってきてあげた方がいいんじゃないか・・。

隣のおばさんが我が家を訪ねた時、母は廊下を這いつくばって雑巾がけをさせられていた。しかもその様子を見ながら、祖父母は近所の人たちとお茶飲みをし、母の悪口を延々と語っていた、とてもいられるものではなかった、と。体が不自由になって母につらく当たる様は、近所の人も眉をひそめるほどだったという。

父と祖父母を問い詰めてみたものの、悪びれた様子もなく、全く聞く耳を持たない。母の病気が原因で家族みんなが精神的に追い詰められてしまったかもしれない。ある時祖母は私にこう言った。「助からなければよかったのに・・」この言葉で、私は母を連れてこの家を出ていこうと決めた。そうしなければ、三面記事に載るような大事件が起こるのではないかと、心底思った。

大学をやめて家に帰ってきて仕事を探し、少しでも早くこの家を出ようと、私の気持ちを母に語った。当然喜んでくれると思ったら、母は「4年間、私も絶対にがんばるから、大学だけは続けて欲しい。自分の将来のためにも。そして、卒業したら世話になるから」と言うのだった。生きるというのはどうしてこうもつらいのだろう。そしてせつないのだろう。18歳の私にはあまりに大きな悩みだった。しかし、たくさん悩み、苦しんだ分だけ、私も母も「たいていのことには負けない」という精神的な強さを持つことができたのだと思う。

中学生の弟に母を守るように言い聞かせて、私は大学に戻った。そして、休みには一目散に帰省し、祖父母に睨みをきかせていたのだ。そのせいで祖母は私のことが疎ましくてしかたがなく、些細なことでいつも大口論(喧嘩かもしれないが)となった。つくづく嫌になったが、それも卒業までのわずかな期間だからと自分に言い聞かせていた。

大学3年の春休みのこと。朝起きると祖母が茶の間で口から泡を吹いて倒れていた。すぐに救急車で搬送したが、母と同じ脳溢血、しかも左脳を痛めことによる右半身不随という、母と全く同じ体になってしまったのだ。

意識を取り戻した祖母に私は、「廊下の雑巾がけ、できる?やってみてよ」と思わず言ってしまったのだった。(続く)

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筆者:渋柿
昭和53年、母38歳で脳溢血。一命をとりとめたものの右半身麻痺、失語症に。
私は17歳から介護生活を開始。38年が過ぎた今も、在宅介護が続いている。
平成28年、母76歳、息子の私55歳。老々介護が間もなく訪れる。
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[写:hu album @fliker]

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