気が付けば朗朗介護(8) -不安と絶望感に耐えられなくなった時…-

この週末のことだった。夕食までは普段と変わりなく元気にしていた母が、夜中に突然体調不良を訴えた。どこか痛むのかと聞いても、苦しそうな顔をしながらも「わからない」というばかり。そのうちにうまく立てなくなり、1人での排尿が困難になってしまった。尿取りパットを使ってみたものの、間に合う量ではない。いくらふき取っても、母自身にもその周りにも臭いが充満してきた。私は途方に暮れた。37年も介護生活を送ってきて、こうした処理には慣れていたはずなのに、無性にむなしくなり、何とも言えない絶望感に襲われたのだ。とりあえずパットを装着した紙おむつを穿かせて、母をベッドに寝かせた。朝方、母の声で目が覚めてベッドへ行ってみると、布団から異臭が漂った。母の体調は幾分良くなってはいたものの、朝までトイレに行けずにパジャマも布団もびしょ濡れだったのだ。洗濯機を5回まわした。そして母の体をシャワーで洗い、きれいな下着とパジャマに着替えさせ、ご飯を食べさせ、昼寝をさせた頃には私の疲れはピークに達した。母を恨んでいるわけではないし、まして自分の人生を恨んでいるわけではない。そう、ただ言えることは私自身が気力を無くしているということ。加齢なのか、先が見えない不安なのか。はっきりした理由はわからないが、家での介護はそろそろ限界なのかもしれないと感じた。

疲れて昼寝した私が目覚めると、母はいつもと変わらず車いすに座り、相撲中継に夢中になり、ひいきの力士に大きな声援を送っていた。ホッとした気持ち半分、虚脱感半分。

在宅看護の限界は、介護する側が冷静でいられなくなった時ではないか。目の前の現実を受け入れることができず、不安と絶望感に耐えられなくなった時、人の手が必要になる。在宅看護の限界が近いことを暗示しているかもしれない。

さて前回の続き。就職して2年目、弟が地元の高校を卒業すると同時に母を迎えに行き、小さなアパートで暮らし始めた。今思えば、収入も少ないのになんと無謀なことをしたものかとあきれるのだが、その時は先のことなど全く考えず、「母をなんとかして幸せにするのだ」という正義感と責任感と思い込みだけで突っ走ったのだ。母は私と暮らせるだけで十分だと言って、家から持ってきたものはわずかな着替えと少しの思い出の品だけで、まるで旅行支度のような身軽さだった。

私はまずは区役所へ行った。障害者の支援について聞きたかったのだ。医療費免除、靴などの装具製作補助、バスやタクシーの利用券、日常的なさまざまな免除など、今ならネットで簡単に調べられることも、その頃は直接聞くほかはなかった。何度か通ううちに区役所の窓口担当者とも顔見知りになり、より親切に教えてくれるようになった。それから病院を探した。初めは家の近くが便利で安心と考え、近所の小規模な病院にかかったのが、大きな手術をした母には最新の医療設備が整っている病院の方がいいと勧められ、市立病院の脳神経外科を紹介された。そしてそれは担当医になったY脳神経外科部長との、長い付き合いのはじまりだったのだ。(続く)

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筆者:渋柿
昭和53年、母38歳で脳溢血。一命をとりとめたものの右半身麻痺、失語症に。
私は17歳から介護生活を開始。38年が過ぎた今も、在宅介護が続いている。
平成28年、母76歳、息子の私55歳。老々介護が間もなく訪れる。
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[写:hu album @fliker]

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