
原安三郎氏は明治17年、徳島県生れ。
撮影当時89歳、社長2社、会長3社、相談役数社、取締役3社、大蔵・法務・通産・国鉄などの諮問機関の委員長または委員となり、いずれも名誉職ではすまされぬ多忙な毎日を過していた。
日本における最年長社長であり、最長不倒社長である。明治42年早稲田大学商学科卒業。時の商科部長田中穂積氏は日銀か安田銀行へと推したが三井物産入りを希望。総長・高田早苗氏に相談し山本条太郎常務を紹介された。
入社試験はパスした。論文提出の時に人事担当者が”君は長男だから店限だ”といった。テンゲンとは本店限りで海外勤務はなしの意味。加えて手足の不自由なことも理由として匂わせた。
怒った氏は即座に入社を辞退した。山本氏に辞退理由の説明に挨拶に行った。原青年は山本氏に条件付き採用は不満足であること、自分が入社を辞退したことは三井物産にとって損失になるであろうことを述べた。
辞退の意は固かったので山本氏は無理には引き止めなかったが、自分でやっている会社が幾つかあったので原青年の気迫をそれらの会社に向けさせることを考えた。
薬丸金山、日本硫黄、金港堂書籍などの整理、経営の仕事を与えた。原氏は昭和初頭40歳代初めには、この3社の他に大日レーザー、日本針布、アスピリンの山川製薬など十数社の社長になっていた。
日本化薬の前身日本火薬製造や朝日レザー、大日本炭礦、江之島電鉄など約20社の取締役にもなっていた。昭和10年51歳で日本火薬製造、共和レザー、中外鉱業各社の社長に就任した。
原氏は既存財閥系には属さず独立独歩で行った。戦後、昭和26年、民間放送設立の動きが激しくなった。
新聞3社(読売、朝日、毎日)と電通との他に9社、計13社から民放ラジオ放送会社の許可申請が出されていた。時の郵政大臣佐藤栄作氏は、誰かまとめ役はいないものかと物色していた。
GHQは郵政省にこの問題を任せずに、官庁からも財界からも独立した機関として電波委員会を作るよう指示した。
委員会は朝日の緒方竹虎氏ほかを通じて、原氏にこのまとめ役を依頼した。誰を社長にしても誰を専務にしても問題の生ずるこの会社を生むについて原氏は産婆役を務め、ラジオ放送(東京放送の前身)が生れた。
その他にニッポン放送、日本短波放送、文化放送などの発足の産婆役も務めた。
(撮影:細江英公、提供:博進堂「気骨」)
『 徳島が産んだ名経営者:原安三郎 へのコメント 2件 』
日本資本主義が
問い直されている今
原氏の業績がもっと見直されなければ
いけないと思う。
日本の経営者はかくあるべき
その遺徳を偲び
中外鉱業の株主になりました