静岡県が産んだ名経営者:石田禮助

石田禮助氏は明治19年、静岡県生れ。撮影当時87歳。明治40年東京高商卒業後、三井物産に入社。昭和14年代表取締役。
その間、海外支店での活躍は、海外商社を含む商社間で“ 石田が通ったあとはペンペン草もはえない”といわれるほどであった。

昭和16年退社。交易営団総裁をつとめ、国鉄総裁時代( 昭和35年5月~昭和44年5月)には、対国会、対政府への言動で勇名を馳せた。
給与を受け取らないことを条件に就任したとか、切符の持たせ入鋏注意などいろいろ話題をまいた気骨の人である。

「朝は柔軟体操、自己流でね。それから木刀の重いのを振る。夕方近くに散歩に出る。1時間20分ぐらいかな。4キロから5キロ、大股に歩く。大股ですよ。雨の日には孟宗竹を真二つに割ったのを踏む。あれはいいですよ。ガンは仕様がないかな。心筋梗塞には歩け歩けだ。脳軟化症は頭を遊ばしておくからなるんだ。考えること。碁、将棋、パズル、いいですな。最もいいのは仕事をすることだ。仕事はいいですな。つくづく思いますよ」。

氏は泰山木の白い花の咲く丘に住む。国府津で農業する人たちは、“ 石田さんとこの泰山木が咲いたぞ、あしたから田植えをするか”というそうだ。数キロ遠くからも1本の大木の花は濃い緑をバックに鮮かに望まれる。

「血圧はいま138と78で非常に調子がいい。国鉄総裁やってるときは179 っていうこともありましたがね」。酒も煙草もやらない。

「物産会社におった時分は、煙草もブランデーも好きだったが」。「いまは工業クラブのメンバーシップ・コミティのチェアマンと、弘済会の評議委員をやっているだけで、ほかになにもやってません」という言葉のはしにも、国鉄の時には対国会、対政府のことをやってきた氏の意欲は消えるどころかまたも燃えあがらんばかりであった。

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