高知県出身・日向夏を名付けた果樹研究家【シリーズお墓から郷土の偉人発見 VOL.5】

バナナが高騰するなど農作物の高騰がとまりませんが、今回は高知県出身の果樹研究家・田村利親さんを紹介します。

幼年時代に漢学、少年時代は英学を修めた田村利親さんは、更に高知県陶冶学舎で学び、1878~1886にかけて高知県や宮崎県で教育者として過ごしました。宮崎県で勤務していた時期に、現地で栽培されている「カンキツ」が優秀であることを確認し、「日向夏蜜柑」と命名しました。田村さんが命名するまでは「日向の夏蜜柑」と呼ばれていたといいます。1891頃には、郷里の父に穂木・苗木を送り、父親が苗木の増殖、栽培を始めました。

その後、田村さんは鹿児島県属、拓務省(※1)、東京府属、農商務省と勤務しましたが、鹿児島県時代は南九州・沖縄県のカンキツ・糖業の指導にあたり、農商務省に勤務してからは全国各地で果樹調査とカンキツ指導を実施していました。1903長岡郡久礼田村(南国市)水谷に高知県農事試験場水谷試験地が開設され、農商務省農事試験場興津園芸地から技師として1908年に退職するまで勤務していました。 自宅でも「南海園」という果樹園を経営しており、新品種の導入や試作に努めるとともに、数多くの苗木を育成し販売していました。1917年に7年間と続く大寒波で果樹全滅の被害を受けたため、やむなく東京に移住しました。

柑橘新種の開発と、海外からの新種導入に寄与した功績がとても評価されていています。 墓前には後年、溝渕増巳高知県知事から贈られた頌徳碑が建立されています。また遺稿として「日本支那楊梅録」(S4未完稿)、『世界柑橘叢説』(3巻・S5、第二巻不明)などがあります。これらの資料は高知県立図書館に保存されています。

※巧務省は戦前に存在して省で外地と言われた日本の植民地の統治事務・監督、南満州鉄道・東洋拓殖の業務監督、海外移民事務を担当していました。

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◆取材協力
歴史が眠る多磨霊園
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/
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