戦争で歩行困難になるも執筆活動を続けた通称「筆のちんどん屋」【シリーズお墓から郷土の偉人発見 VOL.9】

漢方医学復興に貢献し詩人としても活躍した…今回は石川県金沢市出身のF詩家、漢方医学者・中山忠直さんを紹介します。

石川県金沢市に生まれた中山さんは、早稲田商科大学卒業です。大学時代は思想家の北昤吉や国際法学者の中村進午に師事しました。卒業後、父の命令で銀座の服部金太郎が創業した服部時計店(後のセイコー)に入社しました、一年で退職しました。以後、総合雑誌「中外」に2年間程勤め、クロポトキンの著作『田園・工場・仕事場』の翻訳をし、国家社会主義者を自称するも足を洗い、詩人となりました。

詩作は明治末年あたりから始め、1923年に新潮社から中山哲というペンネームで詩集を出版しました。創刊間もない「文藝春秋」に詩論を展開し、大正末年には総合雑誌「日本及日本人」や「報知新聞」でも執筆を振るいジャーナリストとしても活動しました。

詩は自然科学への造詣が深く、スケールが大きく斬新な宇宙的SF詩を発表し独自の世界を展開、気宇壮大な向日性とニヒルでアナーキーな側面が混在した特異な詩人として注目されました。SF詩集の代表作に『自由の廃墟』(1922)、『火星』(1924)、『地球を弔う』(1939)などがあります。

漢方医学の知識も豊富で、1927年『漢方医学の新研究』を発行。その後、改訂15版を数え昭和初期のベストセラーとなる。他に『漢方医学余談』、『日本に適する衣食住』などを立て続けに出版した。漢方界衰退時期の救世主的な存在となり、これをきっかけに、漢方復興運動の中心的役割を成すことになる。中山皇漢医学研究所を設立しました。

一方で、芸術評論、日本画家の豪華画集を自費出版し、当時の軍部から発禁処分となった日本主義者『わが日本学』、さらには、竹内文書や天皇家の起源に触れ、日本人・ユダヤ人同祖論を展開した。

1942年に軍部の太いパイプを持っていたこともあり、太平洋戦争勃発後、日本がシンガポール陥落した際に、文民の司政官として任命された。しかし、シンガポールに旅立つ前に脳出血で倒れ、左半身不随で自力歩行が困難となりました。 以後、亡くなるまでの15年間、事実上寝たきりの生活を送ることになりました。ただし、思考能力と右手は動き、15年間寝床で書き続けました。様々な分野での肩書を持ち、マルチに活動をしました。評論家の大宅荘一は「筆のちんどん屋」という名誉ある称号を与えたといいます。享年62歳でした。

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◆取材協力
歴史が眠る多磨霊園
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/
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