戦前スパイ容疑で逮捕されたことも…【シリーズお墓から郷土の偉人発見 VOL.20】

オリンピックは開催国に雇用などの経済効果だけではなく、イノベーションを引き起こすともいわれています。前回の東京五輪の際に計算機で初の試みを実施した東京都出身のコンピューターのパイオニア安藤馨(かおる)を紹介いたします。

安藤さんは1914年に東京都小石川出身で英文学者の安藤勝一郎さんを父に、バイオリニストとして女性初の文化功労者に選出された安藤幸さんを母として生まれました。兄の高木卓(本名は安藤煕さん)は小説家・ドイツ文学者・音楽評論家として活動、芥川賞を辞退したことでも有名です。

 1932年に渡米し1936年には米国インディアナ州立大学ビジネススクールに留学しました。計量経済学を学んでいましたが、留学中に参加した学会で、カウルス経済研究所が保有するパンチカードシステム「IBM405」が展示されているのを見て興味を持ったといいます。1937年に帰国し、日本IBMの前身の日本ワットソン統計会計機械(株)に入社しました。営業部門の責任者となり、PCS(パンチカードシステム)のセールスを担当したということです。

 1941年12月にはスパイ容疑で逮捕されたましたが、叔父で司法大臣を務めていた岩村通世さんの助力で釈放され、神戸に赴いて北川宗助らと統計研究所を設立ししました。

 1945年の終戦と同時に、アメリカ留学中の人脈などにより、占領軍総司令部(GHQ)の顧問として、PCSを活用しつつ戦略爆撃調査や社会統計、経済統計、社会分析のシミュレーションなどを手がけました。安藤の活躍により、多くの日本人がGHQや在日アメリカ軍基地の情報処理部門に採用されたということです。その後、日本IBMの発足に伴い復帰し、日本における汎用計算機ビジネスを確立しました。1960年に日本IBM常務取締役、1963年にアジアIBM特別補佐に就任し、60年代は東京オリンピックのオンライン・システム開発チームを統括しプログラマーの養成などに努め、1964東京オリンピックの時には、IBM1410計算機とオンラインシステムを駆使した集計システムの開発と運用に注力しました。これは計算機を使ってオリンピックの記録を集計した最初の試みでした。(続く)

【墓所 墓誌】

*墓石前面は「河本家墓」。右面が墓誌です。墓誌には墓石建之者(S16.12建之)でもある河本清(1891.10.27-1987.4.11)、母のスガ、妻の久代、若くして亡くなった長男の明、二男の浩、三男の雅が眠る。 墓所左側に十字が刻む墓誌が建ち、安藤馨にはパウロ、妻の安藤文子(1921.2.9-1996.7.9)にはマリア ユーゲニアと刻まれています。文子の実家が河本家であり、男子が早死されたため、娘の文子、嫁ぎ先の安藤家が墓所を継承したと推察せれています。

出展
<IT人物辞典>
<コンピュータ博物館 日本のコンピュータ パイオニア>

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◆取材協力
歴史が眠る多磨霊園
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/
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