海軍、国際交流、魚…変わりゆく「築地ブランド」から未来の築地のあり方を

築地から豊洲の移転決定がいよいよ現実的になってきています。しかし小池百合子都知事が「築地のブランドは大切にしていきたい」と発言し、豊洲と築地の両方を活用する事実上の併存を提案した都の市場問題プロジェクトチームの小島敏郎座長が「築地ブランドには経済的な価値がある。今、賢い選択をしないと後の世代に負担を残す」とコメントしたように、『築地=魚』のブランドは引き継がれていくことになるかもしれません。

ところで、もともとの『築地=◯◯』はなんだったのでしょう?
歴史的には、築地に魚市場が建設されたのは、昭和10年でした。それまで日本橋にあった魚市場(魚河岸)が関東大震災で壊滅状態になったため、今の築地市場の地に移転されました。

それ以前の明治まで遡ると実は築地は『海軍発祥の地』でありました。明治初期、築地周辺には海軍省をはじめとし、海軍大学校・海軍軍医学校・海軍造兵廠・海軍経理学校などの重要施設が次々に建てられました。もともとこの地には、江戸時代、寛政の改革で有名な松平定信が晩年隠居した広大で素晴らしい庭園『浴恩園』がありました。底辺の中に名勝として親しまれた春風池と秋風池の2つの大池があったのですが、艦船のためのドックにつくり変えられ、築地はまさに「海軍の町」、日本の海防の要の地となったのです。

今は、その面影はほとんどありません。ただ築地市場内にある『水神社』のすぐそばに、ひっそりと佇む『旗山』と記された記念碑からそれが偲ばれます。かつて、この地にあった築山に海軍大臣の旗が掲揚されたため『旗山』と呼ばれるようになったそうです。

また、同じく明治初期には、築地に東京で初めての西洋風ホテルが建設され、外国人が東京で最も多く行き交う「国際交流発祥の地」でもあったそうです。残念ながらホテルは火事で焼けてしまい、再建されなかったため、当時の隆盛は浮世絵でしか観ることができません。

つまり、築地は、「江戸時代の政治家が作った素晴らしい和風庭園」として残すことも、「江戸だけでなく日本全体を守る海軍発祥の地」として保存されることも、「日本の国際交流の中心地」としてあり続けることもできたことになります。

まさに「次の時代に何を引き継ぐと良いのか?」~中長期的な視点で、築地のあり方を考えていくべき節目のようです。

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