
シベリア抑留の悲劇を知って―。旧ソ連による抑留を経験した祖父の人生をたどり、京都府舞鶴市の「舞鶴引揚記念館」で語り部になった大学生がいる。同市の舞鶴港は多くの抑留者の引き揚げ先で、祖父もその一人だった。大学生は「抑留を通じ、平和とは何かを考えて」と訴える。
語り部になったのは日本大3年の今野拓実さん(23)=東京都大田区=。今野さんは幼い頃、祖父が抑留者だと父から聞いていたが、祖父は生まれる前に亡くなっており、直接話を聞いたことはなかった。高校の授業で、自らテーマを設定して調べる課題が出た際、「自分のルーツを知りたい」として祖父の抑留体験を選んだことがきっかけとなった。
父からは「今生きている自分たちが、もう終わったことを、掘り返すべきではない」と反対され、今野さんも、祖父が知られたくなかったことを自分が調べることになるかもしれないと一度は思い悩んだ。それでも「ちゃんと目を背けずに向き合う」と決意し、父を説得した。
調査を始めると、軍歴証明書などから祖父は旧陸軍に入った後、1944年4月に千島列島にあるウルップ島に配属。終戦後に同島からソ連沿岸部に連行され、冬は氷点下20度になるシベリアでの約3年間にわたる抑留を経て、48年10月に引き揚げ船で舞鶴港に帰ってきたことが分かった。
こうした調査結果を同級生に伝えたところ、返ってきたのは「シベリア抑留って何?」。厚生労働省によると、日本人抑留者は約57万5000人に上るとされ、飢えと寒さで過酷な生活を余儀なくされた。そうした歴史そのものが全く知られていないことに大きなショックを受けた。
高校3年の冬、今野さんは「同世代に知ってほしい」との思いから、SNSで見掛けた舞鶴引揚記念館の語り部の養成講座に申し込んだ。約3時間の講座を受けるため、2週間に1回、都内から夜行バスと電車を乗り継ぎ約2カ月間通い続けた。大学入学後、コロナ禍を経て本格的に語り部活動を始め、現在も記念館のイベントなどで抑留の実態を伝え続ける。
「こちらから聞き手に問い掛けることで、相互的なコミュニケーションを重視している」と話す今野さん。「どうしても自分の話は抑留者の実体験には及ばないが、抑留について考える機会をつくることが次世代の語り部の役割だ。自分の言葉で語り継いでいきたい」と話している。
〔写真説明〕祖父がシベリア抑留体験者という語り部の今野拓実さん=6月5日、東京都中央区
〔写真説明〕祖父がシベリア抑留体験者という語り部の今野拓実さん=6月5日、東京都中央区