
前回に引き続き東京五輪の際に計算機で初の試みを実施した東京都出身のコンピューターのパイオニア安藤馨(かおる)の後編です。
1966年に日本IBMを辞め、富士通の取締役として迎えられて移籍しました。富士通は国産の計算機メーカには製造の技術力はあるが、マーケティングに弱味があったため、その部門の強化が必要という認識と、一部でIBM流に対する社内の反発もあったことから、電子計算機の営業部門でなく、子会社として富士通ファコムを設立し、社長に就任しました。ソフトウェアの開発、計算処理サービスの拡大に努め、情報処理サービス分野に軸足を移した。
1967年に富士通ファコムの再編に伴い教育部門が、一般外部を対象とする電子計算機要員の育成を目的として富士通電子計算機専門学校を開設、校長に任命された。電算機メーカが直接指導する電子計算機学校は我が国では最初であった。
1970富士通常務取締役。1974日本のコンピュータ産業育成、情報化への貢献が認められ藍綬褒章を授与しました。1983日本人で初めての情報処理国際連合(IFIP)会長に就任した(~’86)。1986年から91年の間に情報処理学会の国際委員会委員長を歴任し。この間、’87情報処理学会の功績賞受賞し、1989年には(H1)情報処理学会の名誉会員となる。
富士通においてマーケティング、セールス、システムズエンジニアリング、カスタマエンジニアリング、社内教育制度の改革に着手に努め、1992年富士通を退職した。享年83歳でした。
【墓所 墓誌】
*安藤馨にとっての母方の安藤幸(旧姓は幸田:父は旧幕臣の幸田成延の8人兄弟の7番目・2人は早死)の姉兄(すなわち、伯母・伯父)は日本の近代文化の礎を築いた早々たるメンバーです。 姉の幸田延は日本の洋楽黎明期を作った第一人者であり作曲家、ピアニスト。長男の幸田成常はカネボウ創設者であり実業家でした。次男の成忠は郡司家の養子(郡司成忠)で千島・樺太を発見した探検家で。四男の成行は筆名を幸田露伴とした作家。五男の幸田成友は歴史学者です。
*安藤馨の母方の幸田家の墓所は東京都大田区池上にある池上本門寺にあり、幸田延、幸田成常、郡司成忠、幸田露伴、幸田成友、幸田露伴の次女で小説家の幸田文らが同じ墓に眠っています。
出展
<IT人物辞典>
<コンピュータ博物館 日本のコンピュータ パイオニア>