商店街の概念にとらわれない。シャッターが閉じた油津商店街、再生の軌跡

宮崎県日南市。シャッター街と化し、少年たちが野球をして遊べるほど人がいなかった油津商店街を、たった4年で再生に導いた木藤亮太さん。商店街の概念にとらわれず、油津の人たちと対話を重ねてきた結果、25を超える新規出店や、習い事やイベントなどで日常的に人が集まる場所へと生まれ変わりました。2017年3月にその任期を終えた木藤さんに、これまでの軌跡を伺いました。

家族で移住。テナントミックスサポートマネージャーへ

僕の出身は福岡県。もともとは福岡で、まちづくりコンサルティングの会社に勤めていました。行政などからの依頼を受けてコンサルをしていたのですが、同時にいくつものまちを担当するため、一つのまちにかける時間がどうしても少なくなってしまうことが課題でした。

もっと深く入り込んで、まちづくりの仕事をしたい。そう思っていた私の背中を押してくれたのは、当時の社長。日南市が油津商店街を再生させる人材の公募をしているから、受けてみてはどうだと言ってくれたのです。

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応募の条件は、4年間日南に住むこと。行ったことのないまちですし、自分がどこまでできるか不安はありました。それでも、今までとは違うスタンスで油津という一つのまちの仕事に没頭できるならやってみたいと思って応募しました。

応募後、事前調査を目的に初めて日南に行き、油津商店街を視察。お店のシャッターは閉まり、人の姿もなく、「これはハードな仕事になるな」と思った反面、「これ以上悪くなりようがないので、やってのければすごいことになるかもしれない。面白い仕事になりそうだ」と思いましたね。

商店街を歩いていると、アーケード内で野球をしている子どもたちに遭遇しました。人通りがなく、車も来ないので、そこは安全な長細い広場になっていたのです。その光景を目にした私は、商店街にただ店を並べるのではなく、人が集まる長細い広場として捉えて考えることの大切さに気づかされました。

野球をする少年たち

何も、商店街らしく、賑やかだった昔の状態に再生する必要はないんです。住民がこのまちに求めていることを解決し、人が集まるために何が必要かを考えるべき。「今からこういうまちをつくります」ではなく、地元の人たちと対話を積み重ねていくプロセスを大事にした結果、できあがった状態がこのまちに最も相応しい形です。

そのような考えをベースにプレゼンした結果、私は333人の応募者から選ばれ、「テナントミックスサポートマネージャー」に就任することになりました。任期は4年。その間に20店舗を誘致することがミッション。家族5人で日南に移住し、プロジェクトをスタートさせました。

まちの歴史を大切に再生したABURATSU COFFEE

まちづくりの問題点は、補助金を使って一時的にシャッターを開けるものの、事業が終わると続かなくなり、再びシャッターが閉まってしまうことでした。それは、商店街という概念にとらわれ過ぎているが故に、起きてしまうこと。商店街だからこうしないといけないというルールはないので、まずはあえて商店街という意識を捨てるところから始めました。

とはいえ、最初は知り合いも人脈もありません。就任から半年くらいは毎日いろんな会合に顔を出すなどして、地元の方との信頼関係を築いていきました。すると、「木藤を応援しよう、支えよう」と僕の活動に興味を持ってくれた同世代の人たちが集まるようになったのです。彼らと対話を重ねるにつれ、いろんなアイデアが集まり、想いが集まり、人が集まって、「第一歩として、カフェをつくろう」ということにつながりました。

まちづくりに想いを

きっと最初は「木藤がカフェを誘致するらしい。有名なチェーン店が入って都会みたいになるのかな」と地元の人は思ったでしょう。だけどそうではない。この油津というまちのストーリーをブランド化するために、もともとあった喫茶店を改修する方法をとりました。

商店街や周囲の人に話を聞くと、30年前から商店街にあった喫茶店「麦藁帽子(通称むぎぼう)」は、行けば必ず誰か知り合いがいるような出会いの拠点だったとのこと。まちの再生は、まちの歴史の延長線上にお店をつくっていくことが何より大切だと考え、内装はほぼ昔のまま、名前は単純に「ABURATSU COFFEE」にしました。

ABURATSU COFFEE

オープン後は、「主人との初めてのデートはこの席だった」、「懐かしい!」などの声をたくさん聞きました。子どもの頃、栄えていた油津を知っている人が多いから、まちに対する思い入れが強いんですよね。それを大事にしていけば、まちや商店街を応援し、関わってくれる人は増えるだろうと確信しました。

会社を設立。まちを継続させる仕組みづくり

ABURATSU COFFEEの開業と並行して、同志と資金を出し合い株式会社油津応援団という会社を立ち上げました。理由は、僕がやっている事業は4年という区切りがあり、4年後には行政との関わりも薄くなってしまうから。その先も継続するために民間資本による組織をつくれば、行政の力がなくても役割・機能を担い続けられるのではないかと考えたのです。

3人で90万円を集めて登記した油津応援団は、あえて借金というリスクを負いながらカフェを経営し、多世代交流モールを整備するなど積極的に活動を続けました。すると、その動きに共感した45名以上の市民から一口30万円、合計約1500万円の出資を預かることに。市民からの期待と応援を受け、飲食店を中心に15店舗の起業者を生み出すことにつながったのです。

油津応援団に出資

商店街を再生する上で大切にしたのは、店舗誘致から起業家支援へのシフトチェンジです。従来の“店舗誘致”は店舗を出すことが目的化されていました。実はそれよりも、オープンしてからが重要で、根付くまではサポートが必要です。それを担うのも油津応援団の大きな役割。決して甘やかす支援ではなく、厳しい時期にいかにサポートができるか、集客ができるかを考え、いい距離感で支援する仕組みをつくっていきました。

この仕組みができたことで、「私もやってみたい、店を出してみたい」という人が増え、油津商店街の継続性につながり始めました。デザインされた質の高い空間で若い人が出店し、さらに企業誘致をしているマーケティング専門官の田鹿くん(※)の影響によって、誰も歩いていなかった油津商店街は、日常的に若者が行き交う場所になったのです。商店街再生に企業誘致を巻き込んだのは、他に例がないと思います。

油津商店街

こうして商店街に働く場ができることで、保育園やゲストハウスなども誕生しました。再生する前は、「本当にここに20店舗もできるの?」とみんなが思ったでしょう。それだけ高いハードルだったからこそ、周りの方が関わり、助けてくれたのだと思います。

商店街にできた保育園

大人だけでなく、子どもでも参加できる商店街に

商店街には買い物や食事だけでなく、イベントや会議、習い事など別の目的で集まってもらいたいと思い、多目的に利用できるガラス張りのレンタルスペースを商店街の真ん中につくりました。その施設ができる前から、ダンスの先生に相談をすると、施設の整備を待たずに小学生の女の子たちを集めて、アーケード下の空き店舗のガラスに姿を映して、歌と踊りのレッスンを開始してしまったんです。

アーケード下での練習

踊りも歌も上手になるとイベントに呼ばれるようになり、商店街が賑やかになるのと並行してアイドルグループとして成長していきました。施設のオープニングセレモニーのときにはすでにオリジナル曲ができていて、華を添えてくれました。ハードができる前にソフトができあがってしまった感じですね。今ではレンタルスペースでレッスンをしながら、宮崎市内や福岡、秋葉原のイベントに呼ばれ、油津商店街をアピールしてくれています。

最近では、彼女たちに憧れる幼稚園生のグループや、男の子たちのグループもできるなど、油津全体が元気になっています。商店街にレッスンで通うのが日常になることで、商店街は大人だけでなく子どもも参加できるというメッセージになりました。

油津で誕生したアイドル

また、商店街の「夏の夜市」は市内の中高生と一緒に企画・開催しています。これはイベントの賑わいづくりはもちろん、参加する中高生にふるさとの魅力を改めて認識してほしいという気持ちではじめたもの。

うれしかったのは、テレビのインタビューに答えた高校生が、「県外の大学に進学して東京で働こうと思っていたけれど、夜市に参加して日南も面白いと思いました。だから、宮崎大学に進学して日南に戻ってきたいと思います」と話していたんです。

お化け屋敷前には行列

田舎だけど、かっこよく働いている大人がいることを見せていく。日南には、かっこいい先輩がいるんだと思ってもらえることの重要性を実感しました。若者がチャレンジできる場所になり、たくさんの市民の方が関わりながら連鎖的に新しいものが生まれている油津商店街。これをより発展させ、継続させたいと思っています。

10年、20年先も、ずっと継続させるために

油津商店街の次の課題は、大きく2つ。1つは、世代ギャップを埋めていくことです。昔からお店を営む店主は60代以上が多く、新しくお店を持った人たちは30代がほとんど。挨拶は交わすけど世代ギャップがあるので、本当に本音で話しているかというと難しい部分はあると思います。しかし諦めずに、時間をかけてでも、一体感を形成する必要があると感じています。今そのための対話の機会を創出し始めています。

2つ目は、新陳代謝と世代交代です。商売は長く続くとは限らず、実際、再生事業が終わってから撤退したお店もあります。新しく生まれてしまった空き店舗に次の機能を入れていく必要があり、それは半永久的に繰り返していかなければなりません。世代交代、人の入れ替わりは必ず起こり得ることなので、怖がらずに対応し、まちを継続させたいと考えています。

日々交流会が行われ

次の場所は、福岡県那珂川町

2017年3月に4年間の任期を無事終え、これからは、月の三分の一を油津で、残りを福岡県那珂川町で働くことになりました。那珂川町は、僕の出身地。ここで担うのは、役場内の縦割行政を崩して事業間をつなぐこと。これは油津で勉強させてもらったことで、商店街を再生するために、商工政策だけでなく、企業誘致や観光・スポーツ、教育、福祉などさまざまな事業とつながり、縦割りを崩していきました。

那珂川町も日南市と同じで、何かプロジェクトを進めようとしたときに、官と民が一体となった総合力で進める体制をつくるべきで、次は故郷でその役割を担いたいと思っています。

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那珂川町は人口が増えて5万人に到達したまちです。実は、2018年に市になることが決まりました。人口減少社会において、人口増加で町から市になるというのは、かなり稀なケースと言われています。というのも、福岡市と隣接しているので博多や福岡空港に近く便利なうえに、自然が広がる田舎町のベッドタウンとして人気が出たから。

そのため、日南市と同じ5万人のまちでも、那珂川町には外から転入してくるケースが多く、地元出身者の割合が少ないため、まちづくりに対する温度感という面では、難易度が高いかもしれません。それでも、今から那珂川町で生まれ育つ子どもたちには、自分のまちを好きになってほしい。

「商店街の再生」や「まちのリノベーション」なんてのは一つの手段です。地方都市にとっては人口減少にどう立ち向かっていくかが真の課題。進学や就職でまちを離れたとしても、自分が生まれ育ったまちに対する愛着や誇りを失わずに、いずれ戻ってきたり、仕事で関わったりと、まちを盛り上げる人材として育ってくれるような、そんな土台づくりを続けていきたい。それが、いろんなまちに広がっていけばいいな、と思っています。

(取材・文:田村朋美、写真:増山友寛)

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