人がいなくなった団地から気づいた夕張の価値。炭鉱遺産は「宝」です

1990年までの100年間、国内最大級の炭鉱都市として栄えた夕張。炭鉱がきっかけで生まれたまちは、炭鉱の閉山と共に激しく衰退することとなりました。しかし、炭鉱のまち・清水沢では、独特のコミュニティと文化を継続していました。地域にあふれる炭鉱遺産と人に魅せられ、それを観光資源に、地域内外の人をつなぎ、共にまちづくりをしようと試みる、一般社団法人清水沢プロジェクトの代表理事、佐藤真奈美さんにお話を伺いました。

人の気配がしなかった、整然と並ぶ団地

私の出身は大分県の別府市。京都の大学を卒業後、就職で北海道に来た私は、休日を利用して北海道の各地を訪れるようになりました。

夕張に初めて訪れたとき目を奪われたのは、整然と並ぶ大量の「団地」。とにかくすごい数の団地が並んでいるけど、人の気配があまりしないのが気になりました。聞くと、昔は炭鉱で働く人がたくさん住んでいたけど、閉山してからは人がいなくなったとのこと。

「え!? 閉山したら地域の姿をガラッと変えてしまう炭鉱って一体何だったんだろう……」これが、私が夕張に興味を持つことになったきっかけです。

それからずっと、夕張の炭鉱が心に引っかかっていた私は、会社を辞めて2006年に札幌国際大学大学院に入学。論文のテーマに選んだのは、「産炭地域の観光まちづくり」でした。

しかし、教授に「炭鉱遺産で観光まちづくりをやりたい」相談していた矢先、テレビから流れたのは夕張破綻のニュース。それはもう驚きましたね(笑)

それからの1年は、まるでメディアによる破綻ブーム状態。夕張がどうなってしまうのかわからず、見ているくらいしかできませんでした。

清水沢プロジェクト

炭鉱遺産こそ、夕張の価値

炭鉱遺産が残る清水沢地区には、石炭を掘ったときに出た岩石を積み上げた「ズリ山」と呼ばれる山があります。それを初めて登ったとき、眼下には整然と並ぶ炭鉱住宅が広がっていました。赤や青の屋根が連なった、初めて見る不思議な光景。

地域の人たちに話を聞くうちに、その歴史や炭鉱住宅ならではの生活文化、今も当時のコミュニティを継続していることが少しずつ分かってきました。こういうまちこそ本来夕張が価値として認識すべき「観光資源」ではないかと思い、2008年からこの地で研究を始めました。

炭鉱遺産を目当てに訪れる“外”の人と、地域で暮らす“中”の人が出会うことで、一緒にまちづくりを進めていけないだろうか。信頼関係を基にした地域づくりが、清水沢ならできるのではないか。論文の結論にそう書いた私は、以来ずっとここで活動を続けています。

ズリ山のガイド風景

夕張炭鉱の歴史とは

私が研究をするなかで知った、炭鉱の歴史を簡単にお伝えしたいと思います。

そもそも、夕張市は石炭の発見によって生まれた炭鉱都市です。1874年、夕張山地に石炭が埋蔵されている可能性がわかり、1890年に夕張採炭所が開鉱されました。そこで夕張の前身となる登川村が生まれました。

夕張を中心とした産炭地域は、日本の高度経済成長を支えるエネルギー基地として劇的に発展しました。特に夕張は日本最大級の炭鉱都市として1960年には約人口12万人を数えました。(ちなみに今は9000人を切っています)

しかし、エネルギー革命によって石油への転換が進み、石炭産業は厳しい環境に追い込まれます。人員整理に加え、多くの犠牲者を出してしまった事故が相次ぎ、石炭会社は破綻、炭鉱は閉山に。そして、開鉱からちょうど100年の1990年、夕張の炭鉱は全て閉山しました。

昭和57年の炭山祭り

炭鉱ならではの独特の文化

炭鉱によって生まれたまちは、独特の文化を醸成していました。特に私がおもしろいと思ったのは、当時の炭鉱会社が作った地域ごとに、まちの顔も生活スタイルも違っていること。会社ごとにコミュニティがあり、その地域を出なくても生活が成立するため、他のエリアと交流する必要がなかったそうです。

閉山後、市内のあちらこちらにあった炭鉱住宅の多くは市営住宅になりましたが、老朽化が進んで、今では多くが解体されています。しかし、清水沢エリアの住宅は新しく、コンクリートで造られていたため、閉山後も多くの人が継続して居住しました。

その影響から、まちの様子もほとんど当時のまま。住宅はもちろん、共同浴場や集会所などもあり、生活やコミュニティが維持されていたのです。

なぜ共同浴場があるかというと、一般の炭鉱員が住む鉱員住宅というタイプの住宅にはお風呂がなかったからです。ですから、地域の真ん中に、共同浴場が作られていました。

ちなみに、鉱員住宅の他には職員住宅、役員住宅などがあり、役職ごとに住む地区や家のグレードが違っていました。だから、住所を言うと仕事がわかり、棟番号を言うと階級もわかったんだとか。

この独自の文化が根付いた炭鉱遺産を観光資源として生かすにはどうすべきか。清水沢は生活地だから、観光バスが押し寄せるような場所ではありません。外から人が訪れ、地域の人と交流するためには、マネジメントする必要があります。

そこで、夕張市が保存することにした炭鉱住宅の一棟を改装し、地域内外の人が気軽に集まれる場所として「清水沢コミュニティゲート」を作りました。

清水沢コミュニティゲート

すべては、人と人との信頼関係

私が清水沢で実現させたいのは、人を大勢呼ぶ観光ではなく、一人が何回も来る観光です。そのため、訪れた人が自然な形で地域に入り、徐々につながりが生まれるようコーディネートするのが役割。

たとえば、清水沢によくいらっしゃる現代アートの作家さんは、初めて訪れた時期がちょうどお盆前だったので、地域の盆踊りで使う「やぐら」を町内の人と一緒に組んでもらいました。

アーティストだから、やぐらの組み方もうまい(笑)。それがきっかけとなり、個人的なつながりや信頼しあえる関係性を地域の方と築き、何度も足を運んでくれるようになりました。

夕張に興味を持ち、そこに何度も来るというのは、心から信頼し、尊敬し合える関係性が築けているからだと思います。私も清水沢を知って、ここの歴史や生活文化、人のすべてに尊敬の念を抱いています。

交流する場

夕張にしかない「宝」を知ってほしい

清水沢は今、外の人と中の人が入り混じった、おもしろい場所になっています。地域の宝や資源の魅力を通じて、いろんな人と共に歩むまちづくりを実現させて、それによって地域の人が夕張に誇りを持って欲しいというのが私の願いです。

夕張に住んでいる人の半分は高齢者ですが、その半分は炭鉱の歴史を含めて夕張を語れるレジェンドです。もちろん炭鉱を知らなくても、このまちで生きる人は子どもからお年寄りまで、みんながレジェンド。

いろんな思いをしながら生きてきた夕張の人にしか語れないものは、全部「宝」です。それを、外の人にもっと知ってもらいたいし、中の人には誇りを持って伝えてほしい。私はその中継ぎとしてこれからもこの地で頑張りたいと思っています。

(取材・文:田村朋美、写真:増山友寛)

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