日中戦争「不拡大」指示も泥沼化=契機に暗い時代への道進む―「繰り返さぬ教訓に」・防衛研

 1937年7月に始まった日中戦争は、日本が無謀な戦争へと突き進む契機となった。発端の盧溝橋事件で、旧陸軍上層部は当初「不拡大」の指示を出したにもかかわらず、衝突は徐々に激化。次々と戦線を拡大させ、やがて太平洋戦争へと突入する一因となった。防衛省防衛研究所の研究官は「悲惨な戦争を二度と繰り返さないための教訓にしなければならない」と指摘する。
 盧溝橋事件では37年7月7日、北京郊外で日本と中国両軍が衝突した。防衛研究所の松原治吉郎主任研究官や所蔵史料などによると、日本側は当初、中国と全面戦争になった場合、緊張関係にあった旧ソ連が攻めてくるのを懸念。旧陸軍上層部は現地司令官に「進んで兵力を行使すること避くべし」(防衛研所蔵「大陸指」)との指示を出した。
 同月11日に現地で停戦協定が調印されたものの、その後も小規模な軍事衝突がたびたび発生。強行派の意見を抑えきれなくなった陸軍は同月末、中国への本格的な武力行使を始めた。
 間もなく戦火は上海に拡大。「敵の戦争意志を挫折せしめ、戦局終結の動機を獲得する」(同「臨参命」)などとする陸軍中枢の見立てとは裏腹に戦闘は激化した。さらなる飛び火を危惧した日本側は37年11月、ドイツのトラウトマン駐華大使を介し、抗日政策放棄や非武装地帯の設定、経済協力など「比較的穏当な条件」(松原氏)で和平を持ち掛けた。
 中国国民政府を率いる蒋介石は翌12月に和平に同意。しかし、この間に南京を攻略した日本側は態度を一変させ、満州国の承認や賠償金の支払い、日本軍の駐屯保障などを盛り込んだ強気な新講和条件を突き付けた。
 時の首相、近衛文麿は38年1月、「国民政府を対手(あいて)とせず」とする第一次近衛声明を発表し、交渉の打ち切りを宣言。日本は自ら和平の道を閉ざし、長引く戦争へと踏み出していった。
 松原氏は「引き返そうと思っていても、次第に欲が出て目的が変わることがたびたび起こりえるのが戦争だ」と指摘。国内世論や中国との関係性など複数の背景があったとしつつ、「戦争はコントロールが難しい。再び起こさないためには、小さな紛争が拡大しないように教訓を現在に生かさなければならない」と強調した。 
〔写真説明〕防衛研究所に所蔵されている史料を手にする松原治吉郎主任研究官=5日、防衛省

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