素人のセスナ機「赤の広場に無断で着陸」! スカスカ防空網と揶揄されたソ連空軍最悪の失態とは

東西冷戦末期のある日、西ドイツの民間機が突如、モスクワの赤の広場に着陸しました。当時のソ連空軍の幹部が軒並み解任されることとなった事件は、どのようにして起きたのでしょうか。

東西冷戦崩壊のカギとなった、セスナ機「赤の広場着陸事件」

 1950年代から1980年代の終わりまで、ソビエト連邦を中心とした東側諸国と、アメリカを中心とした西側諸国の対立は非常に強く、いつ大きな戦争が勃発してもおかしくないほどに緊張した「冷戦」が続いていました。  この緊張状態は、1989年11月のベルリンの壁崩壊や、1991年のソビエト連邦の崩壊を受けて、終結しますが、それに大きな影響を与えたといわれるひとつの事件があります。1987年5月28日に起こった「セスナ機、赤の広場着陸事件」です。

 事件のあらましを見てみましょう。1987年5月初旬、西ドイツのアマチュアパイロットだったマティアス・ルストは地元ハンブルクで、セスナ172B型機をチャーターし、フェロー諸島やアイスランド、ノルウェー、フィンランドなど各地を旅しました。 フィンランドの首都ヘルシンキのマルミ空港で、「次はストックホルムに向かう」と管制官に告げて離陸したルストでしたが、直後に彼はストックホルムから遠ざかるように機首を東へと向け、機体と共に姿を消しました。ただちにフィンランド国境警備隊が捜索を開始しましたが、機体は発見することができませんでした。それもそのはず、このときルストはモスクワを目指して飛んでいったのです。 一方のソビエト側ですが、この日は奇しくも国境警備隊の記念日でした。休日ということもあり警備は非常に緩くなっていたため、ルストの乗ったセスナ機は、大きな妨害を受けることもなくモスクワ上空まで飛行できたといいます。それでもソ連軍もただ確認を怠り傍観していた訳ではありません。 5月28日14時20分、当時はソ連の一部だったエストニアに高度600mでセスナ機が侵入したところで、ソ連空軍もこの不審機の存在に気づき、スクランブル発進を行いました。さらに周辺の地対空ミサイルシステムもルスト機を追跡し、いつでもミサイルを発射できる状態でしたが発射許可はおりませんでした。 その後、ロシア北西部のクドフで迎撃に向かったMiG-23がルスト機を補足し、交戦許可を求めますが、これも当局に却下されます。「Yak-12に似たスポーツ機のようだ」と報告し、非武装の機体である可能性が高いことがわかったからです。 実は、このセスナ機がどれだけ怪しくても、ソ連軍は攻撃を行うことができなかった事情があったのです。それは、1984年に起きた大韓航空機撃墜事件のためでした。 同事件で、民間機を撃墜して世界中からバッシングの嵐を受けたソビエト軍は、以降、民間機への攻撃を禁じていたのです。そのため、スクランブル発進はしたものの、ソ連軍は手出しすることはできず、ルストの操縦するセスナ機は悠々とモスクワを目指して飛行を続けました。この間もレーダーによる監視が行われましたが、なんと機体を見失ってしまいます。

防空網の不備も味方した事件!

 実は当時のソ連空軍の防空網は、いくつかの地区に分割されたばかりで地区の境界では、混乱が生じていました。レニングラード軍管区に入った同機は、低速で飛行していたため、近くで捜索活動を行っている救助ヘリコプターの1機だと勘違いされてしまい、あろうことかIFF (敵味方識別装置)で“味方”と判断されてしまうのです。 また、着陸直前のモスクワ軍管区でも、同機は規則に反した飛行をする国内の訓練機とみなされ、脅威度は低い扱いとなっていました。同機が、フィンランドからエストニアに侵入した不審機であり、対空ミサイルシステムや迎撃機が何度か捕捉した事実については、軍管区ごとの情報伝達が不十分なため、報告されていませんでした。 セスナ機はモスクワの中心部、赤の広場の脇にある橋のたもとに着陸すると、そのまま赤の広場、玉ねぎ型の屋根が印象的な聖ワシリイ大聖堂の前まで移動して停止しました。降り立ったルストは、駆け付けた警官により逮捕されます。 ソ連の新聞はこの事件を受けて「西ドイツのアマチュアパイロットに着陸され、ソ連軍の赤っ恥!」と報じ、赤の広場には、「シェレメーチエヴォ第3空港」という自虐的なあだ名までつくことになりました。 また、事件の責任を追及され、国防相や防空軍総司令官など約300人の軍関係者が解任されたといいます。これほど大規模な解任や人事異動は、50年前に起きたスターリンの大粛清以来でした。 そのため、実はこの事件と直後の軍指導部の解任劇に関しては、当時ソ連の改革を進めていたゴルバチョフ書記長の仕組んだ陰謀だったという説もあります。 ゴルバチョフ書記長の進める改革に反対する軍関係者を一気に指導部から遠ざけるために、わざと西側の飛行機を着陸させたというのです。また、この事件により、ソ連そのものに対する信頼も大きく揺らぎ、ソ連の崩壊、冷戦の終結につながっていったという見方も出ています。

 ルストがなぜこのような事件を起こしたかについては、詳細は不明なままであるものの、本人は「東西対立を解消し、平和をもたらすため」と答えており、明確な意思を持って行ったことであるようです。 ちなみにこの時使用されたセスナ機は、事件後、一時期日本で展示されていましたが、現在はベルリンにあるドイツ技術博物館に展示されています。

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