猛暑が日本列島を襲っていますが、カレーの季節でもあります。本日は新宿中村屋のカレー開発の立役者・インド出身のラス・ビハリ・ボースさんをご紹介します。
インドのベンガル地方出身のボースさんは、階級の厳重なインドで四階級の第二なる王族階級のボース家として育ちました。 祖国をイギリスの圧制より救うため1908年に民族革命運動に投じ、1912年にはパンジャーブ地方の国境付近にある都市ラホールでインド総督ハーディング卿に爆弾を投じ未遂しました。このため英国政府はボースさんの首に一万二千ルピーの懸賞金をかけたといいます。
1915年に日本に亡命しましたが、当時の日本は英国と日英同盟を結んでおり、英国の強い要求に従って大隈内閣はボースに国外退去を命じましたしかしアジア運動庇護者の頭山満が依頼により、東京新宿中村屋の創業者である相馬愛蔵が新宿中村屋裏のアトリエにかくまりました。在京の外人の出入りが多い中村屋では目をくらませ、日英同盟の破棄されるまで身の安全が保たれたといいます。
中村屋を離れ後は、相馬夫妻の長女俊子さんが連絡役となりやりとししていましたが、後に結婚し日本に帰化しました。 ボースさんは相馬夫妻に恩返しするため、当時の日本で主流であった欧米カレーとは違い、1927年に本場インドカリーを日本に紹介しました。現在でも新宿中村屋の名物の一つとして親しまれています。 戦時中はインド独立運動総裁として日本に協力しました、俊子さんは若くして過労で没し、一人息子も戦死しました。そしてボースさんもインド独立前に没しました。(※)
[ラス・ビハリ・ボース墓所]
ボースさんのの墓はインド式仏塔で、正面にボース家とあります。裏面には右からラス・ビハリ・ボースさんの戒名と享年。新宿中村屋の相馬愛蔵と黒光の長女でありボース婦人の俊子さんの戒名と享年。 そして一人息子の陸軍中尉で戦死した防須正秀さん(防須はボースの当て字で帰化した時の日本名)の戒名と享年が刻み、ここに眠ります。
※ボースさんの死後二年目の1947年にインドは独立を成就しました。インド政府はその功績を偲び記念切手を発行しています。同じくインド独立を目指していたチャンドラ・ボース(杉並区蓮光寺)も日本人妻を持ち独立前に亡くなっています。