村山元首相が死去、101歳=自社さ連立、戦後50年で談話

 旧社会党委員長として自民党、旧新党さきがけと連立政権を組んだ村山富市(むらやま・とみいち)元首相が17日午前11時28分、老衰のため大分市内の病院で死去した。101歳だった。葬儀は家族葬の形で行い、後日、しのぶ会を開く。
 1924年大分市生まれ。明大専門部政治経済科卒業後、大分県議などを経て72年の衆院選で旧大分1区から出馬し初当選。2000年の引退まで8回当選した。
 「非自民」の細川連立政権時代の93年9月に13代委員長に就任した。しかし、旧新生党代表幹事だった小沢一郎氏の政治手法に反発し、細川内閣退陣後の首相指名選挙直後、旧社会党抜きでの統一会派結成を機に連立を離脱した。少数与党でスタートした羽田内閣が2カ月で総辞職すると、55年体制下で激しく対立してきた自民党に加え、閣外協力に転じていたさきがけに担がれて94年6月、旧社会党出身としては終戦直後の片山哲内閣以来となる第81代首相に指名された。
 首相に就任するや、日米安全保障体制の堅持や自衛隊合憲を打ち出すなど党の基本政策を大きく転換した。95年8月には、戦後50年の首相談話(いわゆる村山談話)を発表。戦前や戦中のアジアでの日本の行動を「侵略」と明確に認め、「痛切な反省」と「心からのおわび」を表明した。被爆者援護法の制定や水俣病未認定患者救済問題の解決にも努めた。
 一方で、95年1月の阪神大震災では初動対応が遅れ、同年3月には地下鉄サリン事件も発生。危機管理能力を問われる場面が続いた。96年1月に辞任し、自民党総裁だった橋本龍太郎氏(故人)に政権を禅譲した。その後、党名を変更した社民党の初代党首に就いたが、多くの議員が旧民主党結成に参加、勢力を大幅に減らした。
 引退後は、「女性のためのアジア平和国民基金」理事長を務め、元従軍慰安婦への償い事業に取り組んだ。2013年1月には日中友好協会名誉顧問として加藤紘一元自民党幹事長(故人)らとともに中国を訪問し、沖縄県・尖閣諸島の問題を巡り冷え込んだ日中関係の改善を訴えた。 
〔写真説明〕村山富市さん 
〔写真説明〕党首会談を前に握手する村山富市社会党委員長(中央左)と河野洋平自民党総裁(同右)(肩書はいずれも当時)=1994年6月、国会内
〔写真説明〕戦後50年に当たり、首相談話を発表する村山富市首相(肩書は当時)=1995年8月15日、首相官邸

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