
北海道釧路市を走るJR根室本線の線路際に、コンクリートでできた「謎の遺構」があります。背丈が列車より高く、コンクリートでできたその構造物が実際に使われたのは、わずか2年3か月ほどでした。
短命に終わった貨物線
JR根室本線に乗車すると、釧路近くの新富士~新大楽毛間で“謎の遺構”が見えます。沿線から観察すると、遺構は列車以上の背丈があり、線路を挟む形で立っています。斜めに3つ配置されているこの遺構は、ずいぶんと長い間ここにありますが、周囲が開けている中に突如現れるなど、なんだか不思議な存在です。
これらはかつて、根室本線とは別の線路の鉄橋を支える橋脚でした。つまり、鉄道の廃線跡だったのです。ここで根室本線をまたいでいたのは、雄別鉄道の鶴野線という貨物線でした。ただし、開通からわずか2年3か月ほどで、その役目を終えています。なぜそのような短期間で廃線になったのでしょうか。
雄別鉄道は1959(昭和34)年9月、雄別炭礦鉄道の鉄道部門を運営する会社として設立されました。釧路市の釧路駅から阿寒町の雄別炭山駅を結ぶ雄別本線を中心に、旅客・貨物輸送を行います。
雄別炭礦鉄道時代の1951(昭和26)年7月には、根室本線新富士駅から雄別埠頭を結ぶ埠頭線を釧路埠頭倉庫から譲受します。鳥取信号所(釧路市昭和町)から新富士駅を結ぶ鳥取側線とともに、新富士駅を経由して埠頭線へつながるルートもできました。
のちの1959年9月、前述のように雄別鉄道が設立され、雄別炭礦鉄道から雄別鉄道の路線に変わります。
貨物輸送にその力を発揮していた鳥取側線ですが、国道を横切ることや踏切通過に伴う道路渋滞の発生、また、新富士駅では列車密度が高まる根室本線を、雄別鉄道が山側から海側へ平面交差することなどがネックとなります。街も鉄道もエネルギーに満ちていた高度成長期らしいエピソードといえます。
貨物線は2年あまりで廃止…何があった?
これらを解消するため、根室本線や道路をオーバークロスする貨物線が雄別本線の鶴野駅(釧路市鶴野)とともに造られ、新富士~鶴野間が1968(昭和43)年1月21日に開業しました。これが雄別鉄道鶴野線で、遺構の場所で根室本線をまたいでいたのです。
鶴野線の開業により鳥取側線は廃止され、鳥取信号所は雄鉄昭和駅となります。新富士や鳥取、昭和の地域にとっても変化を迎えた時でもありました。
このような経緯で開業を迎えた鶴野線でしたが、約2年3か月後の1970(昭和45)年4月16日に廃線となります。1969(昭和44)年4月、親会社の雄別炭礦が経営していた茂尻炭鉱(赤平市)で爆発事故が発生し、閉山。この影響で急激に資金繰りが悪化し、雄別鉄道は親会社への吸収合併を経て、最終的に鉄道事業の廃業に至ったのです。
この結果、雄別鉄道が運営していた路線は、釧路埠頭開発に譲渡された埠頭線を除き廃線となります。鶴野線は市内の道路交通状況の改善や根室本線との平面交差解消など、重要な役割を果たしたにもかかわらず、わずかな期間でその役目を終えたのでした。
現役時代よりも遺構としての時間がはるかに長くなった橋脚。廃線跡の多くはサイクリングロードなどに活用されている中、当時の様子を伝えるこれらは貴重な存在といえます。根室本線に乗車した際や、近くを車で通った際は気にかけてみてはいかがでしょうか。
余談ではありますが、東武鉄道で「SL大樹」などを牽引(けんいん)する蒸気機関車「C11 123」は、かつて雄別鉄道で「C111」として活躍していました。元々は滋賀県の江若鉄道向けに製造され、1957(昭和32)年に雄別鉄道へ移籍。雄別鉄道の廃止後は釧路開発埠頭の機関車となり、1975(昭和50)年まで現役でした。
つまり、C111が雄別鉄道に在籍した期間は鶴野線の営業期間と重複しており、根室本線との交差も走っていたと考えられるのです。
わずか2年あまりで役目を終えた路線とその遺構。そこを現役時代に走行したかもしれない蒸気機関車が、遠く関東の地で動態復元を経て今も活躍している……そう考えると、なんだかロマンを感じてしまいます。