特攻「熱望」、今は平和切望=戦なき80年「今後も」―97歳の元少年飛行兵・埼玉

 「終戦で生きる目的をなくした」。特攻隊への参加を「熱望」した元少年飛行兵、上野辰熊さん(97)=埼玉県新座市=は当時の心境を振り返る。あの戦争から80年。現在は「これだけ長く続く平和を今後も末永く保ってもらいたい」と切に願う。
 山口県出身の上野さんは、幼少期に父の仕事で旧満州(現中国東北部)に渡り、各地を転々とした。軍人に憧れ、当時住んでいた北京で旧日本陸軍の少年飛行兵の試験を受け合格。1943年10月、15歳で福岡県の大刀洗陸軍飛行学校に入った。
 基礎訓練を受けた後、朝鮮半島の京城(現ソウル)や平壌の部隊に配属。45年1月に始まった操縦訓練では、戦闘機で高度約1000メートルから約20メートルまで急降下した後、海上を時速約500キロで水平飛行した。敵艦に爆弾を投下する想定だったが、「特攻のための訓練だ」と感じたという。
 約1カ月で訓練を終えると、1人ずつ上官に呼ばれ、特攻隊に志願するか問われた。上野さんは「熱望」と書いたメモを提出。「特攻に行かせてください」と直訴もした。しかし、部隊に新人パイロットの指導役が足りなかったため、上野さんは平壌に残った。
 同年5月には、鹿児島県内にあった万世飛行場(現南さつま市)に拠点を置く部隊に転属した。沖縄戦に参加していた部隊には補給基地もなく、出撃機の多くは帰還できなかった。「ほとんど特攻と同じだった」。6月に沖縄戦の組織的戦闘が終結すると、部隊は本土決戦に備え飛行学校がある大刀洗飛行場に拠点を移した。
 8月14日朝、訓練を続けていた上野さんに出撃準備命令が下った。その時を待ったが、翌15日に玉音放送が流れて中止に。突然の敗戦に1カ月ほどは何も考えられなかった。「出撃してお国のために死ぬのが本望だったが、急に終戦となって目的を失った」
 部隊は解散し、上野さんは故郷・山口に戻った。北京から引き揚げた母や姉らを支えるため大工となり、鹿児島県や長崎県で空襲被害を受けた建物の再建に携わった。その後、東京都内で内装工として、70歳ごろまで働いた。
 「戦友たちが生かしてくれているのでは」。健康の秘訣(ひけつ)を、笑顔で語る上野さん。万世飛行場跡地で毎年4月にある慰霊祭に今も参加し続ける。「人や物が失われるだけの戦争は絶対にしてほしくない。平和が一番だ」。 
〔写真説明〕インタビューに答える元少年飛行兵の上野辰熊さん=7月11日、埼玉県新座市
〔写真説明〕少年飛行兵だった17歳当時の写真を手にする上野辰熊さん=7月11日、埼玉県新座市
〔写真説明〕インタビューに答える元少年飛行兵の上野辰熊さん=7月11日、埼玉県新座市

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