
玉音放送から3日後の1945年8月18日、旧日本陸軍が駐留する島が旧ソ連軍に急襲され戦闘になった。千島列島北東端で起きた「占守島の戦い」だ。捕虜となり、シベリア抑留も経験した103歳の元兵士高橋昇一さん=北海道小樽市=は「戦争はもうこりごり。とにかく駄目だ」と訴える。
青森市出身の高橋さんは19歳で小樽に移り漁師になった。陸軍に入り、占守島の駐留部隊には43年3月に配属されたという。当初はアリューシャン列島アッツ島に赴く予定だったが、米軍機などに上陸を阻まれた。同島の守備隊は同年5月、最後の突撃を行い「玉砕」した。
占守島では塹壕(ざんごう)堀りなどに従事した。45年8月15日には「大事な放送があるから」と宿営地のテントに集められ、敗戦を知らされた。「これで小樽に帰れる」
安堵(あんど)は3日後に暗転した。旧防衛庁の公刊戦史「戦史叢書(そうしょ)」によると、ソ連軍は18日午前1時半すぎ、対岸のカムチャツカ半島から射撃を始め、島北部の竹田浜に上陸した。「米軍相手に戦ってきた。終戦から3日もたってソ連が来るとは思わなかった」と振り返る。
高橋さんは近くの四嶺山でソ連軍と対峙(たいじ)。約100メートル先で味方の戦車が爆破され、仲間の遺体を見たが、その後竹田浜を通るとソ連兵とみられる遺体が無数にあったという。
停戦交渉は21日にまとまり、捕虜としてソ連の船に乗せられた。「ダモイ(帰国)」と言われ帰国できると思ったが、漁師の経験から、船の進行方向は星を見れば分かる。「北に向かっている」。船はソ連のマガダンに着き、高橋さんらはさらに50~60キロ奥の町に連れて行かれた。
待っていたのは、木の伐採の強制労働だった。朝食はおかゆとキャベツの煮汁だけ。伐採量のノルマを達成できないと食事を減らされた。氷点下20~30度という極寒の中、木を切り続けた。
高橋さんは幸い体が丈夫だったためノルマを達成し、タバコの葉の粉などをもらった。その粉を加工して作ったたばこをソ連兵に渡し、黒パンを受け取り生き延びたものの、栄養失調で亡くなる仲間を見るのは「本当につらかった」と語る。
抑留開始から4年。49年9月のある日、「ヤポンスキー(日本人)、ダモイ」と言われた。だまされ続けてきた高橋さんは「またうそを言っている」と信じなかったが、マガダンで日本の船を見た時に本当だと確信した。京都・舞鶴港に帰国して小樽に戻り、漁師などをして暮らした。
あれから80年。戦争の記憶は鮮明だ。「覚えようと思って覚えているわけではないが、頭に浮かんでくる」という。
ロシアによるウクライナ侵攻など、戦火は今も世界で続く。「戦争は人をいいだけ(好きなだけ)殺す。もうこりごりだ」と話す高橋さん。「戦争は愚か。してもいいことなんて、ねえんでねえか」。
〔写真説明〕インタビューに答える高橋昇一さん=5月17日、北海道小樽市
〔写真説明〕若い頃の写真を手にする高橋昇一さん=5月17日、北海道小樽市
〔写真説明〕インタビューに答える高橋昇一さん=5月17日、北海道小樽市