人生狂わす「戦争いけない」=東京大空襲、孤児の女性―上野で浮浪経験も、6月死去

 戦後80年を迎えた太平洋戦争は多くの孤児を生み出し、東京・上野などで「浮浪児」としての路上生活を余儀なくされた人もいた。東京大空襲で親を失い、今年6月に87歳で死去した鈴木賀子さんもその一人で、「たった一つの戦争で大勢の人生が狂わされた。戦争だけは絶対に起こしてはいけない」と訴えていた。
 東京都江東区で育った鈴木さんは、1945年3月の東京大空襲で被災し、別れて逃げた母と姉を失った。父は病死しており、もう1人の姉と弟と残され7歳で孤児になった。
 姉は勤務先の寮暮らしで、弟と親戚宅を転々とした。北海道に突然連れて行かれたこともあり、親戚に2階の窓から投げ落とされるなど虐待された。懇願し東京に戻ることになったが、青函連絡船に置き去りにされ、物乞いをして姉の元に帰った。「私たちは品物と一緒だった」と述懐した。
 姉の寮に長居はできなかった。「みんな地下道で寝てるんだから大丈夫よ」と姉に声を掛け、上野駅の地下道で弟と寝泊まりした。
 生きるために他の浮浪児6、7人と仲間になり、上京してきた人の弁当や、闇市で売られていた食べ物を盗んで分け合った。年上の子から「盗んだら、まず口に入れろ」と教わった。捕まってもおなかには入るからだ。口に物を入れると早く走れず、捕まってはたたかれた。
 地下道に女児は少なく、多くは男児で大人もいた。「子どもも大人も関係なく、毎日のように亡くなる人がいた」。元気のある人が遺体を抱えて入り口に置くと、誰かが片付けていった。
 1カ月ほどで、鈴木さんは親戚宅、弟は施設へ行くことに。当時は「いじめられることのない上野にいた方が良かった」と思ったという。最終的に茨城県の継母に引き取られ、中学卒業後は東京で就職した。
 弟は20歳で自殺。姉も早死にした。体験は心の底に抑え込んできたが、2005年ごろに東京大空襲・戦災資料センター(江東区)を訪れたことが契機となり、取材などに応じてきた。
 「戦争は国が起こした人災。戦争がなければ、私は親と一緒に平和に暮らしていた。人生を狂わされた人がいっぱいいる」と声を震わせ、「戦争は無駄死に。絶対に嫌だ」と語っていた。 
〔写真説明〕東京大空襲で孤児となり、今年6月に亡くなった鈴木賀子さん=2019年3月、東京都墨田区
〔写真説明〕上野で浮浪生活をする戦争孤児ら=1946年、東京都台東区(撮影師岡宏次氏、昭和館提供)

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