こっちのローカル線は「アウト」 理不尽に切られた廃線跡に残る“奇跡の光景”とは? 「セーフ」の区間はいま岐路に

大阪・関西万博期間中に利用者が増えるか“試されている”JR加古川線の末端区間。35年前、この区間は「セーフ」となり存続しましたが、引き換えに「アウト」となって廃止された区間を歩くと、並々ならぬ地元の思いが感じ取れました。

岐路に立つ「加古川線」の末端

 2025年大阪・関西万博の開催期間中、JR西日本は加古川線のうち利用者が低迷している西脇市―谷川間(17.3km)間を1日2往復増やす実証実験をしています。利便性を高め、観光利用などが増えるのかどうかを検証する狙いがあります。

 JR西日本によると、西脇市―谷川間は2023年度の1km当たりの輸送人員を示す輸送密度が275人で、電化されている線区としては同社のなかで最低です。100円の収入を得るためにかかる費用は2021―23年度平均で「1894円」に達しました。

 実証実験の結果として「利用の増加に向けた勢いが認められない」と判断すれば、「持続可能な地域公共交通のあり方について議論を開始する」とJR西日本は説明します。この場合、JR西日本の負担を軽減するために鉄道の施設保有を沿線自治体などが引き受け、同社は列車運行に特化する「上下分離方式」への移行や、路線バスへの転換なども選択肢として検討される可能性があります。

 西脇市―谷川間が岐路に立たされている今、改めてクローズアップされるのが、加古川線にかつて乗り入れていた“別働隊”と呼ぶべき路線です。筆者(大塚圭一郎:共同通信社経済部次長)が廃線跡を歩くと、消滅から35年経過したとは信じられない「奇跡」と呼ぶべき光景が待ち受けていました。

西脇市駅ではなかった“玄関口”

 この路線は、現在の西脇市駅から分岐して鍛冶屋駅までの13.2kmを結んでいた旧鍛冶屋線です。旧国鉄の第3次特定地方交通線に指定され、JR西日本に引き継がれた後の1990年に廃止されました。

 西脇市駅は中心市街地から離れており、ここから鍛冶屋線の1駅先に“西脇市の玄関口”がありました。現在は西脇ロイヤルホテルが建っている場所の近くにあった「西脇駅」です。

 この駅は、現在の加古川線の加古川-国包(現・厄神)間を運行していた旧播州鉄道が1913年8月に国包-西脇間を延伸開業して誕生しました。同時に開業した現在の西脇市駅は、鍛冶屋線が廃線になるまで「野村駅」と呼ばれていました。1.6km離れた旧野村―西脇間には現在、歩行者と自転車が通れる遊歩道「やすらぎの道」が整備されています。

当時の車両は“超ド派手”に

 旧鍛冶屋線の区間は1921年5月に西脇から市原へ延び、23年5月に終点の鍛冶屋まで延伸して全線開通しました。

 旧西脇駅から北へ続く路線跡の道路は「レントン通り」と名付けられています。これは西脇市政50周年を迎えた2002年4月、姉妹都市のアメリカ西部ワシントン州レントン市にちなんで命名されました。24年にレントン市を訪れたばかりだった筆者は懐かしい気分になりました。

 さらに北進し、杉原川を沿って歩いていると驚くべき“史跡”がありました。

 かつて鍛冶屋線を走り、車体外側に備えた「外吊りドア」が特徴的なディーゼル車両キハ30が2両並んでいたのです。子どもや動物などを色彩豊かに描いた塗装は2010年に施され、「おとぎの国の列車」と名付けられています。

 傍らには1920年築の洋風建築だった鍛冶屋線市原駅舎を93年に復元した「西脇市立鍛冶屋線市原駅記念館」が建っています。延べ床面積75.62平方メートルの屋内には、きっぷ売り場があり、旧市原駅の時刻表や運賃表、列車に付けられていたサボ(行き先表示板)などが展示され、鍛冶屋線の歩みを伝えています。入場は無料です。

 北西へ進んだ一角に、旧中村町駅の駅名標が出現しました。ここは駅の跡地に整備された「あかね坂公園」で、「ゆめ列車」と名付けて鍛冶屋線の沿革をイラスト入りで紹介した看板も立てられています。

 多可町文化会館ベルディーホールの先から終点の鍛冶屋駅跡までの線路跡は、全長1.4kmの歩行者と自転車の専用道「ぽっぽの道」(別名「水と風の遊歩道」)が延びています。

 杉原川に架かる橋梁には鍛冶屋線の走行風景の写真が飾られ、沿道には信号用器具箱が残されており、列車が走っていた時代が目に浮かびます。信号用器具箱の一つは鉄道電機産業(現・てつでん)の製品で、製造月日は「昭和40(1965)年8月」と記されていました。

 木造の旧鍛冶屋駅舎は「鍛冶屋線記念館」となっており、駅名標が立てられたプラットホームにもキハ30が1両たたずんでいました。こちらはエメラルドグリーン色に白帯が入った引退時の塗装のままです。

 ここから西脇市駅まではウイング神姫の路線バスが45分前後で結んでいます。

理不尽に切り捨てられた「思い」は今も

 廃止から35年がたった鍛冶屋線ですが、役割を終えた6駅のうち2つの駅舎が復元または現存し、走っていた車両が計3両保存され、随所で鍛冶屋線の軌跡を語り継いでいる地元の熱い思いは「奇跡」と呼べそうです。

 廃止前には沿線住民らの間で存続を求める機運が高まったものの、切り捨てられたのには理不尽な事情がありました。鍛冶屋線の1985年度の1日1km当たり輸送密度は1198人で、JR西日本発足初年度である87年度の加古川線野村(現・西脇市)~谷川間の1131人をやや上回っていました。

 しかしながら、国鉄の赤字ローカル線の存廃決定は線区ではなく、路線ごとに検討されました。このため、“加古川線”に含まれていた野村~谷川間は「セーフ」、鍛冶屋線は「アウト」と判定され、明暗が分かれたのです。

 鍛冶屋線と同じように、加古川線を幹として枝のように延びていた支線の高砂線(加古川-高砂港)、三木線(厄神-三木)、北条線(粟生-北条町)も明暗が分かれました。高砂線は1984年に廃止、三木線と北条線は85年に兵庫県などが出資する第三セクターの三木鉄道と北条鉄道へそれぞれ引き継がれています。その後、三木鉄道は2008年に廃止されました。

 こうしたなかで鍛冶屋線も第三セクター鉄道に転換する案も浮上したものの、兵庫県関係者は「三木鉄道、北条鉄道の運行で苦労していたので及び腰だったと聞いた」と話します。

 歩いて気になったのは、沿線地域の商店街が「シャッター街」になっていたことです。もしも地元の熱意が実り、鍛冶屋線が残っていれば景色が違っていたかもしれないと考えさせられました。

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