
【ニューデリー時事】インドは世界最多のハンセン病患者を抱える。治療法が確立された現在においても同国特有の身分制度カーストの枠外の存在とみなされ、コミュニティーから追放されるケースもしばしばだ。隔離政策が長らく続いた日本と同じかそれ以上に、元患者らに対する差別や偏見は苛烈だ。
◇回復後も「最底辺」扱い
ヒンズー教の僧院に併設された建物で男性が脚を引きずりながら食事の用意をしていた。首都ニューデリー郊外、ハンセン病患者や回復者約100人が集まって暮らすコロニー(集落)。運営や食事の配給を担うビノド・クマールさん(50)は病の影響で右脚が義足で、両手指にも変形がある。
生まれたのは1000キロ近く離れた東部ビハール州の村。10歳ごろに発症すると、村民や親族はあからさまにクマールさんを避けるようになった。約35年前にこの地に移り、回復した今でも一度も帰っていない。「(カースト枠外で最底辺の)『不可触民』と見なされた。戻ったらまた追い払われるだろう」
後遺症で三輪車での生活を余儀なくされているラム・パダラティさん(65)は投薬で改善した今も体の激しいかゆみや燃えるような痛みに襲われるという。外に出るとさげすんだ視線にさらされることもあったが、約25年間暮らし、同じ境遇の仲間が集まるコロニーは「どの病院より安心」と話した。
◇名前刻まれた宮崎医師
差別が根強いとはいえ、インドにかつて250万人いたと推定される患者は激減。世界保健機関(WHO)が定めた1万人当たり患者1人未満の状態を指す「制圧」を2005年に達成した。
患者抑制では、インドに渡った日本人の貢献も大きかった。北部アグラにあるハンセン病研究センター(通称JALMAセンター)。熊本県の国立療養所「菊池恵楓園」園長を務めた宮崎松記医師=享年(72)=が日本の奉仕団体や両国政府を巻き込む形で1967年に開所した。
建設費や当時最新の設備は日本からの募金や政府開発援助(ODA)で賄われ、後に印政府に移管。インドのハンセン病研究をリードする施設となった。約2キロの距離にある世界遺産「タージマハル廟(びょう)」に通じる道には宮崎医師の名前が冠されている。
元所長のビシュワ・モハン・カトチ医師(72)は、2代目所長の西占貢医師=同(64)=とともに2人の「無私の貢献は傑出しており、いつまでも記憶される」と話した。
宮崎医師を巡っては恵楓園で患者の隔離政策を進めたとして後に批判も受けた。
〔写真説明〕ハンセン病回復者のビノド・クマールさん=4月30日、ニューデリー郊外
〔写真説明〕ハンセン病研究センター内に掲げられた宮崎松記医師(右)と西占貢医師の写真=4月15日、インド北部アグラ
〔写真説明〕ハンセン病研究センターに隣接する宮崎松記医師の墓に花を手向けるビシュワ・モハン・カトチ医師=4月15日、インド北部アグラ