
アメリカが運用するB-1B「ランサー」戦略爆撃機には、緊急時用のエンジン始動スイッチが機首下部にあります。ただ、このスイッチを押すときは世界が終わる直前かもしれません。一体どういうことでしょうか。
巨大な爆撃機がスイッチひとつで動く?
最近の自動車は、スマートキーの普及によって、物理的にカギをイグニッションスイッチに差し込み回さなくとも、プッシュ式のスタートボタンを押すだけでエンジンを始動させることが可能です。じつは、同じようなシステムがアメリカ空軍の戦略爆撃機B-1B「ランサー」にもありました。
B-1B「ランサー」は超音速飛行が可能な爆撃機です。現代の飛行機では少数派になりつつある可変後退翼を備え、爆撃機というよりも戦闘機のようなスマートなフォルムゆえに、飛行機ファンなどから人気の高い機体です。胴体下部のウェポンベイには最大で34tもの爆弾や巡航ミサイルなどの兵器を搭載することができ、これら兵器と燃料を最大に搭載した場合の最大離陸重量は約217tにもなります。
この巨大爆撃機には4基のGE F101-GE-102ジェットエンジンが搭載されていますが、これらを一度に始動させることができるのが「アラート・スタート」と呼ばれるボタンです。
このボタンはB-1の機首下にあるノーズギアのカバーの裏側にあり、その後ろには乗員が機体内部に入るためのハッチとハシゴがあります。機体に乗り込む前に「アラート・スタート」ボタンを押せば、乗員が座席へと移動する間にエンジンの始動手順が進んでいきます。本来、航空機のエンジン始動は多くの手順を経て行うものですが、このボタンはそれをたったひとつの操作で進めることができるのです。
「B-1には左右に2基ずつエンジンが付いており、それぞれにAPU(補助動力装置)というミニエンジンが付いています。このボタンを押すとそのAPUが動き出し、4基のメインエンジンが始動します」と、B-1の乗員は説明してくれました。
この機能だけを見ると非常に便利にも思えますが、現在はこの装置は使われていないといいます。それはなぜなのでしょうか。
用途は核戦争用? あくまで緊急時の手段
航空機のエンジンを始動する際に多くの手順が必要なのは、さまざまな操作をするだけでなく、安全のために確認作業も合わせて行うからです。
「アラート・スタート」ボタンを使うと機体始動作業が早くなるだけでなく、これら確認作業も省略されるため、エンジンや機体にある不具合を見逃す可能性もあり、安全の観点からは決して良いものではありません。
では、なぜそのようなボタンをあえて用意していたのかというと、実は世界規模の核戦争に備えたからでした。B-1はもともと核兵器を搭載することが可能であり、アメリカとソ連(現ロシア)が対立する冷戦時代には、核戦力の一翼として運用されていました。仮に米ソがお互いの核兵器を使用する全面核戦争が発生した場合、相手の核兵器が発進基地に到達する前に離陸する必要があり、機体と国の存亡が関わる瞬間では安全よりもスピードが優先されたのです。
幸いなことに米ソの全面核戦争は起こらず、B-1も核兵器の運用能力を封印され、現在はその任務から外されています。核攻撃に備えた緊急発進の必要性もなくなったため、この「アラート・スタート」ボタンも使われなくなったというわけです。
「現在ではこのボタンを使って機外からエンジンを始動することはありません。機体を始動するときは機内に私たちクルーが乗り込み、通常の手順で安全で確実にエンジンを始動して発進していきます」(B-1乗員)
現在では使われなくなった「アラート・スタート」ボタンは、スイッチ周辺の注意書きも消えてどこか古びた雰囲気がありました。しかし、この装置が目に見える形で残っているのは、40年ほど前は紛れもなく全面核戦争が実際に起こりうるものとして考えられていたからにほかなりません。
このスイッチが実戦で使われなかったことは、人類にとって喜ぶべきことだといえるでしょう。
用するため、機首部分にこのようなスナイパーXRターゲティングポッドを新しく搭載している(布留川 司撮影)。