日本の鉄道「運転は一流、ただ…」外国人記者ズバリ指摘 インバウンド対応100年の試行錯誤 いつの時代も“国主導”

外国人観光客の受け入れは今でこそ活況を帯びていますが、その歴史は戦前まで遡ります。当時の「外客」誘致と鉄道の関係は、どのようなものだったのでしょうか。先人の模索と工夫をたどります。

日本の国際観光事業は130年前に始まった

 日本国内を鉄道で旅行する外国人の姿は、今や日常の風景になりつつあります。しかし、この外国人旅行客の受け入れは今に始まったことではありません。戦前に端を発する誘客と鉄道の関係を振り返ります。

 インバウンドが急速に戻っています。新型コロナ禍真っただ中の2020年5月にわずか1663人まで落ち込んだ訪日外国人旅行者は、2023年1月には約150万人、2024年1月には約269万人まで急回復しました。 これまでの最多は2019年の年間約3188万人でしたが、2024年はこれを上回る3310万人に達するとJTBは予測しています。2023年のインバウンド消費は約6兆円、日本のGDPの1%以上を占めるまでになり、輸送を担う鉄道各社も熱視線を送っています。 では、戦前の日本における外国人旅行者(当時は「外客」と呼びました)誘致と鉄道の関係はどのようなものだったのでしょうか。 日本の国際観光事業は1893(明治26)年に渋沢栄一らが中心となって設立した「貴賓会(ウェルカム・ソサエティ)」に始まりますが、渋沢らが実業界の重鎮となると、業務は1912(明治45)年3月、鉄道院後援の下に設立された「ジャパン・ツーリスト・ビューロー」(現在のJTBの源流)に引き継がれます。 設立の中心を担ったのが、鉄道院営業課長の木下淑夫です。木下はニューヨーク留学中、外国は日本を「文化程度の低い一小国」としか考えておらず、日本を紹介しようと思っても英仏語で書かれた適当な本がないことを痛感しました。

外国人対応は「武士道の真髄」

 日本の味方を増やしたいと考えた木下は、「百聞は一見にしかず」と多くの外国人に日本を実際に見てもらい、日本の友人を作ってもらうことが重要だと考えました。帰国した木下は鉄道院幹部に「国際親善と富国増進の最良作」として外客誘致の必要性を説いて回り、時の内閣総理大臣・原敬の支援を受けて専門機関の設立にこぎ着けました。 彼はまずポスターに注目しました。それまでも浮世絵風のものはありましたが、三越宣伝部の杉浦非水を抜擢し、奈良の五重塔と鹿の洋風ポスターを描かせました。続いて英・仏・露・中国語のパンフレット「An Official Guide to Eastern Asia(東亜案内)」を制作。これは改訂を重ねて戦後しばらくまで使われ続けたそうです。 受け入れ態勢の整備も進めました。1914(大正3)年に開業した東京駅に「東京ステーション・ホテル」を開業。また、木下はアメリカでナショナル・パークを視察した経験から、富士山麓や日光、十和田湖などを国立公園にして、道路、ホテル、公園などを整備して外客誘致に活用したいと考えました。国立公園法の施行は木下の没後、1931(昭和6)年のことですが、彼の先見の明を示すエピソードといえるでしょう。 鉄道では1912(明治45)年6月のダイヤ改正で、東京~下関間に「特別急行列車」を設定し、これを釜山から朝鮮鉄道、南満州鉄道、シベリア鉄道経由でモスクワに至る国際連絡列車としました。 また、彼の発案で1908(明治41)年に設立された「英語練習所」では、選抜された現業員に対し、英米人教師が2年にわたって実用的な英会話をたたき込みました。彼らは特別急行列車の列車長に配置され、外国人対応に活躍しました。 木下は現業員に「海外万里の地より遥々来遊して、言語に通ぜぬ地理を解せず、旅行上最も劣弱の地位に在る外人に対し、鉄道従事員等の之を厚遇するは、所謂人道の翻意を尽くすのであるのみならず弱者を助けるは、実に我が国古来武士道の真髄」であるとして、外客対応の重要性を説きました。 さらに木下は「国際連盟に加入して永久平和を企図すると供に我が国民が等しく隣邦諸国民を了解し、又彼等国民をして真に我が国を了解せしむる」ことが重要と記していますが、明治から昭和初期の「国際化」は、朝鮮半島や満洲の植民地支配、中国権益の獲得といった政治的な側面と切り離せないこともまた事実です。

「運転の正確な点は一流。ただ惜しむらくは…」外国人記者が指摘

 第一次世界大戦が終結すると国際交流は再び活発化します。1918(大正7)年頃の外客数は年間7000~8000人と今から見れば微々たる数字でしたが、ジャパン・ツーリスト・ビューローをもう一段発展させようという声が政府内外から上がります。 そこで広範囲にわたり「国策としての外客誘致事業」を推進すべく、1930(昭和5)年に鉄道省の外局として設立されたのが「国際観光局」です。ちなみに「観光」という言葉はこれを契機に一般化したそうです。1933(昭和8)年の外客数は2.6万人、1935(昭和10)年は4.2万人と順調に増えていきました。 国際観光局が力を入れたのが、1940(昭和15)年に開催予定だった東京オリンピックでした。1938(昭和13)年に国際観光局が発行した『外客は斯く望む』は観光に関する国内外の新聞報道をまとめていますが、鉄道に触れたものも少なくありません。 例えばあるドイツ人記者は「列車の運転の正確な点については、日本は確かに世界において一流の地位にあります。ただ惜しむらくは列車中がまだ相当に不潔なことです」と指摘。ジャパンタイムズも「乗客を危険にさらす古い木造車が依然使用されて」いると記しています。「世界標準」にはまだほど遠かったのが現実です。 その後の日本は戦争の時代を迎えます。日中戦争の勃発を受けてオリンピックは1938(昭和13)年に返上が決定。国際社会で孤立を深めたことで英米からの旅行者は激減しますが、太平洋戦争開戦までは「わが国民精神の真髄を海外に宣揚する」ため、外客の誘致が引き続き進められました。 こうして見てきたように、島国日本の外国人旅行者誘致は常に国策が付いて回りました。2000年代以降のインバウンド増加もまた、観光立国を目指した政府の「ビジット・ジャパン・キャンペーン」の成果です。これが民間主導になった時、初めて日本の観光政策は次のステージを迎えると言えるのかもしれません。

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