【後編】日本に初めて砂糖が伝わった、お菓子の島・平戸/「牛蒡餅本舗 熊屋」8代目の世界への挑戦

古きを伝承しながらも、新しきを追求する。お菓子の島・平戸の「牛蒡餅本舗 熊屋」熊屋誠一郎さんは、平戸の文化や歴史を重んじながらも、若い当主として新しい和洋菓子作りや、海外展開を積極的に進めている8代目です。どのような思いを持って菓子作りをしているのか、お話を伺いました。

東京でビジネスを学び、再び平戸へ

生まれ育った平戸に戻り、ここでやっていこうと腰を据えたのは、26歳のときでした。

岐阜県の全寮制の高校を卒業後、千葉県の和菓子屋さんで3年間修業をし、一度は「熊屋」へ。父のもと、平戸で1年半働くうちに、「師匠と弟子という職人の世界しか知らないままでは、見識の狭い人間になってしまうのではないか」と危機感が募っていきました。

そこで、まったくの異業界に飛び込もうと、東京にあるIT企業の経営企画部に就職。人事や総務などを含めた、組織管理業務をひと通り経験し、3年間、“働きながら世の中を学ぶ”貴重な時間を過ごしました。平戸に戻って8年が経った今、8代目として父から熊屋を引き継ぐ準備をしているところです。

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和菓子への固定概念を崩した取り組み

昨年、「東西百菓之図」プロジェクトの話を、発起人である松尾さん(平戸蔦屋24代目)から聞いたとき、即決で参加を決めました。オランダと平戸という歴史ある2国の融合を、お菓子で表現するなんて素敵な試みだなと。

しかし、始まってみると、想像以上の大変さに参加したことを後悔しそうになりましたね(笑)。まず、オランダ人のクリエイター2人が作るお菓子のデザインが、驚くような色と形のものばかり。指定される味の組み合わせも、「なるほど、そうきたか」と思うような、僕の想像をはるかに超えたものでした。

さらに、このプロジェクトは東京のアートディレクターがプロデューサーとして全体を仕切っていたのですが、それがまた熱い人で、何度試作を作ってもなかなかOKが出ません。「この色にもっと透明感を出したい」「この形はもっと丸みを帯びてほしい」など、電話やメールでのやりとりは何度も続き、1つのお菓子ができるまで5~6回は作り直したと思います。熊屋での業務が終わったあと、夜中まで一人黙々とお菓子に向き合う日々が、7カ月続きました。

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8つのお菓子を完成させた今思うのは、「このプロジェクトに関われたことは、確実に、これからの自分の財産になる」ということです。オランダ人クリエイターのアイデア、プロデューサーの意見という、和菓子職人以外の視点が入ったことで、自分では絶対に広がらなかった新しいお菓子の世界を見ることができました。

たとえば、「墨で染めた織物」や「天国への道」というタイトルの、色鮮やかなブルーのお菓子があります。ブルーのお菓子は、自分では発想できません。「和菓子とはこういうもの」という固まった考え方をいい意味で崩され、柔軟に新しいものを取り入れる器が、少し広がったかなと思っています。

平戸のストーリーをお菓子に込めて、世界へ

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これから僕がやろうとしているのは、熊屋のお菓子の海外展開です。これを積極的に仕掛けていくために、2016年には台湾で最も大きな食品見本市「フード台北」に出店し、何社かの飲食店からコラボレーションのお話をいただきました。

なかでも魅力的だったのが、「マカオでカステラを売りたい」というレストラン経営者からの提案です。香港とマカオで飲食店を経営している彼は、マカオや日本の貿易の歴史について非常に見識のある方でした。マカオはもともとポルトガル領であり、平戸は日本で初めてポルトガル船が入港した場所。ポルトガルから平戸に来る船は、ほとんどマカオを経由しているなど、両者には深いつながりがあるのです。

「マカオで、平戸のカステラを売る」

そのこと自体が、カステラを語る深いストーリーとなります。物語ができるのは、国際貿易港として栄えた平戸ならでは。改めて、歴史を実感しました。

平戸の和菓子には、伝統ある菓子でありながら西洋の要素が入っている、という特徴があります。クリームやチーズを使った現代風の和洋菓子は全国にあっても、国際貿易港というルーツがあるからこそ入った西洋のエッセンスは、ここでしか再現できないもの。海外文化を取り入れながら発展してきた平戸の魅力を生かし、「マカオで話題になったカステラ」という付加価値がつけば、国内のデパートで並んだときも、魅力的な差別化になるかもしれません。面白い展開を期待できそうだなと感じています。

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平戸らしさ、自分らしさをお菓子に表現したい

お菓子は芸術であり、表現であり、後世にのこしていくべきもの。平戸の自然の美しさや歴史の深さを、お菓子を通じて表現できる作り手でありたいし、より高尚なレベルを求めていきたいです。

また、3年間、従業員として企業を見たサラリーマン経験を、「熊屋」の経営にも生かしていきたいと思っています。“町の小さな和菓子店”であり、いち企業として、売り上げ分析に基づいた事業計画を立てていくような会社にしていきたいですね。

「熊屋の味を、国内外問わず、一人でも多くの人に届けるためにはどうすればいいか」。その問いのヒントのひとつが、平戸が持つ物語をお菓子に入れていくことにあるのではないかと思うようになりました。「熊屋のお菓子を選ぶなんて、センスがいいね」と言われるようなブランドを作りたい。長く後世にのこるお菓子が1つでも2つでもあるように、正解のないお菓子作りを続けていきます。

(取材:田村朋美、文:田中瑠子、写真:増山友寛)

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