【前編】日本に初めて砂糖が伝えられた“お菓子の島”平戸。「平戸蔦屋」24代目が後世に残したい文化とは

1550年、ポルトガルの貿易船が日本に初めて入港した長崎県平戸市。スペイン、オランダなどの貿易船も訪れ、小さな島に西洋文化が次々と伝えられていきました。その一つが、カステラや金平糖など、それまでの日本にはない“砂糖”を使った南蛮菓子。それは平戸の新たな文化として取り入れられ、“お菓子の島”として歴史を刻みました。そんな平戸には、創業515年の老舗和洋菓子店「平戸蔦屋」があります。「平戸の菓子の歴史をなぞりながら、後世にのこる新たな菓子文化をつくりたい」と語る、24代目の松尾俊行さんに、お話を伺いました。

お菓子は、その土地の文化のシンボル

平戸蔦屋を継ぐ前、私は東京と福岡の和菓子店で修業をしていました。平戸を離れ、戻ってきて感じたことは、かつて国際貿易港として栄えた平戸の歴史や文化を、お菓子に結び付けて語れるということ。

その地域にしかない風土や文化が、色や味、香りとなって醸し出される、そんなお菓子を作りたい。鎖国以前、有名な長崎の出島より前に初めて諸外国を受け入れ、西洋の人や文化を柔軟に受け入れてきた平戸でしか作れないお菓子を、発信し続けたいと思ったのです。

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ポルトガルから伝来した「カスドース」や「花かすていら」は、先人たちが苦労して作り、平戸の歴史を象徴する味となりました。当時は斬新なお菓子が、長い時を経て文化になったように、今つくっている新たなお菓子が、50年後、100年後にも残り、語り続けられるお菓子となれば、それほどうれしいことはありません。

オランダと平戸文化を融合させ、新たな「百菓之図」を作り出す

そんな思いから、島の菓子職人たちと挑戦しているのが、「東西百菓之図」プロジェクトです。これは、1841年(天保12年)に作られたお菓子図鑑「百菓之図」にヒントを得たプロジェクト。

「百菓之図」とは、平戸藩松浦家35代の熈(ひろむ)公が、南蛮菓子のほか、京や江戸などの人気菓子も加えた図録の製作を命じたことから生まれた、菓子図鑑です。熈公は1年半をかけて100の菓子を選び、さらに図録作りに1年半をかけ、レシピ付きの色鮮やかな図録を完成させました。

「百菓之図」を松浦資料博物館で見た東京のクリエイターが感銘を受け、「新・現代百菓之図」を作れないかと考えたのが始まりでした。

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その方にお声がけいただく形で、「東西百菓之図」プロジェクトは具体的に動き始めます。「平戸とのつながりが深いオランダのデザイン要素を混ぜ合わせた、新たな“平戸菓子”を作ろう」、と。アイデアは発展し、オランダ人のクリエイターが描き起こした菓子のデザインを、平戸の和菓子職人が作っていくという、まったく未知のプロジェクトが始まったのです。

プロジェクトに賛同したオランダ人のクリエイターは、建築デザインや写真を得意とする、お菓子とは領域の異なる2人でした。彼女たちに出会ったのは、オランダで開催された「モノジャパン」という、日本のモノづくり企業や職人が集まる見本市です。和菓子を披露しようと初めてオランダに行くと、平戸の菓子作りに興味をもってもらえました。

そこで、彼女たちにも平戸に1週間滞在してもらい、平戸の文化と歴史、人、空気などを存分に味わってもらった上で、デザイン作成を始めてもらいました。菓子の知識がまったくないデザイナーにあえてデザインしてもらうことで、色や形、香りや味わいなど、これまでの和菓子にはなかった世界観を作っていけるのではないか。そんな期待がありましたね。

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そして、その期待は的中。日本の和菓子は、春夏秋冬、花鳥風月の要素を取り入れるのが一般的ですが、まずその概念から異なります。彼女たちから出てきたデザイン案は非常に独創的で、「これらを和菓子で表現する」という挑戦の壮大さに、改めて身が引き締まりましたね。

そこで、プロジェクトの趣旨に賛同してくれる仲間を増やそうと、平戸で和洋菓子屋を営む熊屋さん、菓子工房えしろさんに声をかけ、24種類の菓子を8種類ずつ担当。デザインを忠実に再現しながら、和菓子としての上質な味わいを完成させていく数カ月の試行錯誤が始まりました。

クリエイターやプロデューサーと議論を重ね、何度も試作品を作成。「平戸蔦屋」としての業務もあるなか、「なんでこんな大変なプロジェクトを始めちゃったんだろう」と思ったこともありました(笑)。

それから約1年。できあがった24のお菓子は、今までの和菓子では見たこともない、宝石のような作品になりました。和菓子のルールにはない色合いや味わいも、オランダとの歴史が長い平戸だからこそ発信できるものです。斬新なだけではない“ストーリー”のある菓子が、ゆくゆくは歴史となり文化となり、後世に残るお菓子になればいい。そのためにも、「東西百菓之図」を、味の面でまだまだ進化させていきたいと思っています。

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現在は、きっかけとなった「百菓之図」に描かれている100のお菓子を、忠実に再現する挑戦も始めています。完成したのは、まだ25個。「百菓之図」にあるレシピは非常におおまかなので、絵や色合いを見ながら、経験と技術力、想像力を総動員させて作るしか方法がありません。170年以上前の先人たちは、どうやって菓子を作っていたのか。歴史を旅するような菓子作りはとても刺激的で、こうした経験を積めるも、平戸ならではだと思っています。

平戸蔦屋は、平戸のもの

私は、1502年から続く「平戸蔦屋」の24代目ですが、蔦屋家ではありません。平戸蔦屋は蔦谷家から始まり、その後、木本家、松尾家によって引き継がれてきた歴史があります。平戸の歴史と文化の象徴とも言える、松浦家の御用菓子「カスドース」を絶やしてはいけないという思いで、平戸のみんなで菓子文化を守ってきたのが、「平戸蔦屋」の歴史なのです。

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築400年のお店も、かつては三浦按針(江戸時代初期に徳川家康に外交顧問として仕えたイングランド人、ウィリアム・アダムス)が住んでいた家であり「蔦屋は平戸のもの」という思いは自然と持っています。ですから、松尾家での継承が難しくなれば、「平戸蔦屋」の味や思いを大切にしてくれる、他の誰かにつなげたい。今は松尾家がそのバトンを受け継いでいるだけだと考えています。

僕の最後の仕事は、脈々と続いてきた平戸の味や技法を継承すべく、「平戸蔦屋」を愛してくれる後任者を探すこと。そして、古きを知り、新しいものを取り入れていく“温故知新”を大切に、平戸の菓子文化を発展させていくこと。そんな未来につながる新たなお菓子を、次にのこしていきたいと思っています。

(取材・編集:田村朋美、文:田中瑠子、写真:増山友寛)

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