史上最大の砲を積んだ「列車砲」その絶大な火力 でも「活躍たった1回」だったワケ

歴史上もっとも大口径の火砲が据え付けられたのは列車でした。その威力は1発で要塞を吹き飛ばすほどでしたが、様々な理由で活躍の場はかなり限定されることになりました。

マジノ線を破壊するために考え出された巨砲

 歴史上もっとも大口径の火砲が据え付けられたのは、戦艦ではなく、鉄道車両です。第二次世界大戦のドイツ軍では、「グスタフ」と「ドーラ」という2門の列車砲が作られ、砲口径80cm、砲身長は32.48m、7tもの砲弾を約37km先まで飛ばすことができるという規格外の巨砲でした。第二次大戦前に問題となっていたフランスの対ドイツ要塞線である「マジノ線」を破壊することを目的として1934年からクルップで開発が始まり、1940年に製造されます。

 砲を運搬する列車の貨車をそのまま砲台にし、火砲として使用する「列車砲」という発想は、鉄道の発展と共に生まれました。古くは1861年から1865年にかけてのアメリカにおける南北戦争時代にはすでに原型があり、要塞攻撃のために使用された記録があります。 19世紀末には欧州で研究が進み、大規模に戦場に投入されたのは20世紀初頭の1914年から1918年まで行われた第一次世界大戦でした。当時の列車砲の評価は大戦中盤の1916年8月15日付の読売新聞によると「輸送が軽快で、射撃のための準備が少なく、いたるところで戦闘をして、瞬く間に砲を隠すことができる」と、フランス軍が戦場に投入した列車砲を評価しています。 ただ、「グスタフ」と「ドーラ」 が開発された第二次大戦時は、当時と状況が変わっていました。航空機の発展により、移動は制空権の確保が絶対条件になっていました。さらに第一次世界大戦でさかんに行われた塹壕戦のような、長期間に渡り膠着状態が続く戦線というケースも少なくなり、戦線は流動的に。第一次大戦期の新聞には「輸送が軽快」と書かれていた列車砲も、それから30年で自動車や飛行機などが発展すると、過去のものになっていました。

たった一度しか使用されず破棄される

 そして運用される予定だったマジノ線の攻略は行われることはありませんでした。1940年5月10日から始まったフランスとの戦いでは、ドイツ軍はマジノ線の構想から外れていた、アルデンヌの森林地帯を抜け、いわゆる電撃戦といわれる装甲部隊の機動力を活かした戦法でフランスに勝利してしまいます。 それでも列車砲は実戦投入の機会が模索され、「グスタフ」は、独ソ間で1941年9月から始まったセヴァストポリの戦いにおいて、クリミア半島南西部に位置するセヴァストポリ要塞の攻撃に使用されます。計48発の砲弾を発射したとされており、1942年6月17日の砲撃では、同要塞の守りの要になっていたマキシム・ゴーリキー砲台に命中弾を与え、10m以上のコンクリートに防護された弾薬庫も破壊するなど、その凄まじい威力を証明しました。 ただ、能力を発揮できたのはその戦いのみでした。1発の砲弾の威力の高さは魅力でありましたが、そもそも、その巨体さゆえ重量が1350tもあることが問題でした。 移動するには専用のディーゼル機関車と戦場まで届けるレールの敷設が必要なうえ、射撃のためにも約1500人の人員が必要でした。そこまでの労力を使い、撃てる砲弾の数は1時間にわずか3、4発程度と、同じ人員を割くならば、通常の火砲や爆撃機の方がよほど効率がいいことが明らかとなります。

 さらに、投入する戦場がないまま時が経過し、ドイツが劣勢となると、移動手段の確保すら不可能になってしまいました。それでも、1944年8月に発生したワルシャワ蜂起への投入が検討されますが、ここでも使われることはなく、「グスタフ」「ドーラ」とも1945年4月、連合国軍に鹵獲されることを避けるために爆破処分されました。

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