有人特攻兵器「桜花」に“生きて帰れる仕様”があった 製造2機のみ なぜ米国で展示へ?

米本土アリゾナ州に、現存唯一といえる日本製の激レア機があります。それは旧海軍が開発したロケット機「桜花」の複座型。この仕様は2機しか作られなかったそうですが、なぜここにあるのか、誕生から展示までの経緯をひも解きます。

アリゾナの博物館に展示される激レア日本機

 アメリカ南西部、アリゾナ州ツーソンにあるピマ航空宇宙博物館。ここは約400機の航空機が収容されている全米有数の規模を誇る航空博物館であることから、他では見られない第2次世界大戦中の旧日本軍機も少数ながら展示されています。中でも極めてレアな機体だといえるのが、旧日本海軍が開発したロケット機「桜花」の訓練用複座型です。「桜花」は太平洋戦争中に日本海軍が開発した特攻兵器のひとつです。全長約6mの細長い機体の前部には1200kgの徹甲爆弾が搭載されており、機銃などは搭載していないため、攻撃は目標に体当たりするのみです。なお、機体後部には固体ロケット(4号1式噴進機)3基を装備しており、これを使うことで最大速度648km/hまで加速することができます。

「桜花」は洋上を航行する敵の軍艦に対する攻撃に使われたため、たとえるなら現代の対艦ミサイルと同じ運用思想の兵器といえるでしょう。しかし、ミサイルが電子機器で誘導されるのに対して、桜花は誘導については人間が搭乗して行います。帰還することを想定していない兵器のため、攻撃の成功に関わらず使用すること自体、人間の命が失われることを意味しています。 ただ、ピマ航空宇宙博物館に保存・展示されているものは、「桜花」の一種でありがなら、帰還を想定した特殊なタイプです。実はこの機体、前述したとおり、実戦で使うための機体ではなく、乗員を訓練するための練習機仕様なので、生きて出発地へと戻ってくることが必須のものでした。 加えて、複座機仕様は「桜花」K-2と呼ばれる、たった2機しか作られなかった希少モデルなのです。

桜花の弱点とは? それに対応した派生型と練習機

 そもそも、「桜花」自体、今の価値観からすれば到底理解できない特攻兵器という存在ですが、当時の旧日本軍はこれが戦況を打開する兵器だとして優先的に開発を行っており、戦争の推移に合わせて随時、改良型も計画されていきました。 一般的に有名な「桜花」は11型と呼ばれるモデルです。このモデルは自身で離陸することができないため、当時、旧日本海軍が運用していた一式陸上陸上攻撃機、通称「一式陸攻」を母機に転用し、同機の爆弾倉に搭載する形で離陸、敵艦隊にある程度接近したところで切り離され、一定距離を飛翔したのち敵艦に体当たりするという流れでした。 しかし、「桜花」11型は通常の爆弾や魚雷よりも重かったため、それを搭載した一式陸攻は鈍重となり、敵機に容易に迎撃・捕捉される事態が多々おきます。母機である一式陸攻が撃墜されれば、切り離し前の「桜花」も運命をともにするしかありません。資料によると、「桜花」攻撃に参加した一式陸攻の6割以上が撃墜されたといいます。 実戦では「桜花」のパイロット55名が特攻によって亡くなっていますが、同時に発射母機となった一式陸攻も52機が撃墜されており、その乗員である約360名の命が失われています。 これらの戦訓から、発射母機が「桜花」の運用状の弱点だと判断した旧日本海軍は、航続距離を伸ばして地上から発進する改良型の開発を進めます。これが43乙型と呼ばれるタイプです。

「桜花」43乙型は、推進装置に固体ロケットではなく「ネ20」ジェットエンジンを搭載。これにより航続距離は、11型の37kmに対して約278kmに伸びる予定でした。また、離陸の方法も空中投下ではなく、地上に設置されたレールの上からカタパルト発進するやり方に変更されており、そのための発射拠点として大戦中には京都府の比叡山と神奈川県の武山に基地が作られています。 ピマ航空宇宙博物館に展示されている「桜花」K-2は、この43乙型の練習機として製造された機体です。「桜花」の練習機としては、11型を元にした単座の滑空機「桜花」K-1もありましたが、「桜花」K-2の場合は前方部分に操縦席を追加して学生と教官がともに乗り込み、飛行訓練することが可能で、加えて推進装置として11型の「4号1式噴進機」1基も搭載していた点が異なります。これによって離着陸だけでなく、本番と同様にカタパルトからの発進も訓練で体験することが可能でした。 また、訓練で繰り返し用いるため、再使用するための着陸用スキッドを標準で備えていたのも大きな特徴です。

廃棄から奇跡の復活→歴史の生き証人へ

「桜花」の派生型は43乙型以外にもいくつか計画されていましたが、大戦末期の混乱と物資不足から、ほとんどが計画のみで終わっており、43乙型も実際に生産されることはありませんでした。 しかし、11型を中核に練習機を含めて約800機の桜花が生産されており、それらのうち何機かは終戦後にアメリカ軍が接収して、その他の航空機とともに調査のために本国へ送っています。 ピマ航空宇宙博物館に現存する「桜花」K-2もそのうちの1機でしたが、当初の扱いは世界で唯一の現存機としては考えられないほど乱雑なものでした。なんと手続きの問題で廃棄扱いとなってしまい、廃品置き場に長らく放置されていたのだとか。 幸い、1974年にアメリカの学術文化研究機関である国立スミソニアン協会に管理が移管されたことで、機体がこれ以上破損することはなくなりました。しかし、それ以前の破損はいかんともしがたく、たとえば現在の「桜花」K-2の機体表面、とくに胴体側面の日の丸を中心とした部分には破損によって無数の穴が開いていますが、これは実戦の損傷などではなく、博物館関係者によると「放置されていたときに、心ない人間が悪戯(いたずら)で銃か何かを撃ち込んだ跡」だそうです。 また、廃棄扱いになったため、この機体に関するアメリカ側が記した資料・履歴はほぼ残っていないのだとか。そのため筆者(布留川 司:ルポライター・カメラマン)がピマ航空宇宙博物館を訪れた際も「たぶん、この機体については日本人の君(筆者:布留川 司)の方が知っていると思う」と言われたほどでした。

 現在、「桜花」の現存機で博物館等に展示されているのは、アメリカ、イギリス、インド、日本に15機ほど。そのなかで、激レア機である43乙型は、2012年に現在のピマ航空宇宙博物館に貸し出され、2018年頃から常設展示されるようになっています。 特攻兵器という性質上、この機体に対する評価は時代ごとで大きく異なるといえるでしょう。しかし、残された本物の機体が今でも実際に見られることは、当時の状況を客観的に知るうえで重要な存在だと筆者は考えます。 ちなみに当時の連合軍は、「桜花」をコードネームで「BAKA Bomb(バカ爆弾)」と呼んでいました。そこに込められた意味は、英語で「愚か」を意味する「foolish」や「idiotic」で、それに対応した日本語として選ばれたのが「バカ(馬鹿)」だったそうです。ただ、それは単純な「桜花」への中傷というよりも、当時の日本がそのような兵器を新たに開発したこと、そのような戦略思想そのものに対する皮肉だったのかもしれません。

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