「貨物を守れ」「解放しろ」命運分けた“判断” 関東大震災の非常事態 鉄道員たちはこう動いた

想定外の事態が発生した時、どう行動すればよいのか。とっさの判断がその後の状況を左右しますが、関東大震災発生時の各駅でも、駅長がその判断を迫られました。今回は対照的だった行動を紹介します。

脱線した貨車には火薬が積まれていた

 大地震では様々な想定外の事態が起きます。当時者はマニュアルにない対応を迫られ、重大な決断を余儀なくされる例が多々あります。 関東大震災では、後に鉄道省から表彰された鉄道員の好判断による行動がいくつかありました。津波や火災、略奪といった恐怖の中、まさに修羅場での対応事例を見てみたいと思います。

 激震が発生した直後から、横浜の中心部では大火災が広がりました。横浜駅付近では、ライジングサン石油とスタンダード石油の貯油槽が爆発し、そこから漏れた石油で付近の川は、まさに火の川となります。 当時、横浜駅から北東約2kmの場所に海神奈川という貨物駅がありました(現・横浜市神奈川区千若町)。同駅構内を、9600形蒸気機関車が44両の貨車を牽いて走行している時、激震が発生します。最後部の4両の貨車が脱線し大破。そして運悪く脱線した貨車1両には火薬が積まれていました。 西側へ約1km離れた、隣の東神奈川駅近くの工場からも火の手が上がりました。海神奈川駅の西から南にかけて猛火に囲まれた形です。風向き次第では、すぐにどちらかの火がやってきそうでした。津波が襲来するという風評も聞こえてきました。 この時、海神奈川の職員はどうしたでしょうか。同駅は港に面しています。咄嗟の判断で有蓋貨車の中に入り込み、運び出せる量であることを確認して、積み荷の火薬を海に投げ込み始めました。脱線の時の対処としてマニュアルなどにない行動で、現場の状況から機転を利かせたものでした。海神奈川駅貨物係・尾坂二郎は震災時に奮闘努力したとして、後に鉄道省から金70円の效績賞を受けました。

略奪被害にあった駅も

 続いて、同様の事態で対照的な行動を取った別の例を見てみましょう。 当時の東海道本線は、まだ熱海~函南間の丹那トンネルができていないため、現在の御殿場線経由で沼津方面とを結んでいました。その下曽我~松田間で、沼津発高島行き上り貨物列車が脱線します。線路築堤が約3kmにわたって最大6mも沈下したための脱線でした。 松田駅長は同列車に積載された貨物が略奪されるのを危惧し、全貨車を鉄線で二重に封印し、ときどき駅員に監視させていました。しかし人員不足のため監視が不完全だった時を狙われて、発災2日後の夕方から翌朝にかけて、大部分の荷が何者かに略奪されてしまいました。

 一方、鎌倉駅の例を見てみましょう。震災当日はちょうど、避暑客が鎌倉から引き上げる時期でもあり、駅待合室には普段より多い約100名の乗客がいました。地震発生3分前の午前11時55分、1番線に貨物列車が到着します。そこへ地震発生。待合室にいた乗客は、皆すぐに駅舎の外へ飛び出しました。駅舎は壁が落ち窓ガラスが割れますが、倒壊することなく無事でした。 しばらくして駅付近の民家数か所から火災が起き、火は駅へと迫ってきました。また、津波も材木座海岸から滑川をさかのぼって、鎌倉駅の手前500mほどの地点までやってきました。 鎌倉駅長・大久保為二郎は、線路上に職員全員を招集し非常点呼をかけます。狼狽した職員を戒め各職員に役目を振り分けます。駅にいる旅客と避難してきた人たちの救助にあたる者、駅舎内にある金品・重要書類・保管荷物を搬出させる者、延焼してくる火災に備える者などです。持ち場を定められた職員は、機敏に行動を開始しました。

私有財産である荷物を公衆へ

 やがて猛火が駅まで達し、駅構内の自動車車庫、貨物ホームまで延焼してきます。駅長は消火に全力を挙げるようにと指揮をふるいます。 18時頃、一帯の火災は収まりました。しかし余震が続き、津波再来の風説もあり、大勢の被災者が駅付近の線路へと避難してきました。

 この状況を見た鎌倉駅長は、駅構内を開放し、貨物ホームや貨車の中にある食料を避難者に分配する決断をします。通信は途絶えているので、上部組織との連絡がつかないまま、駅長独断で行ったことでした。 まず駅前広場に大釜を据え、貨物ホームにあった米俵を運び出して、避難者への炊き出しをします。翌日は貨物列車に積載していた白米や煮干し魚を構内にいた避難者、駅員とその家族に分け与え、さらに町役場と協議して米40俵、醤油7樽、煮干魚32箱を救護品として町へ提供しています。 非常時における大久保駅長のリーダーシップはみごとでした。駅はその町のシンボルといえる場所です。そこを開放し、貨物は略奪されるのを守るという発想ではなく、逆に積極的に人々に分け与えました。そのため各地で起きた略奪もここでは起きていません。大久保駅長は、後に鉄道省から100円を賞与される表彰を受けています。 私物である貨車の荷物を鉄道社員の独断で公衆に分け与えることは、賛否が分かれることでしょう。やはりケースバイケースだと思います。大地震などで想定外の事態となった時、どう決断するか。関東大震災での事例は、その参考になるはずです。

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