山手線も未完成!? 慶應高校が前回優勝した「大正5年」東京周辺の「鉄道風景」とは 球児たちどう登校?

2023夏の甲子園は、神奈川の慶應高校が「107年ぶりの優勝」を勝ち取りました。107年前、東京周辺の鉄道はどんな姿だったのでしょうか。

前回の優勝は「1916年」

 2023年夏の全国高校野球で、神奈川県の慶應高校が優勝を果たしました。同校にとっては実に107年ぶり、1916(大正5)年の第2回大会以来の優勝でした。 107年前というと、もちろん東京や横浜の街は現在と全く異なる風景でした。鉄道もまだ路線網が発達しておらず、大動脈となる路線や大手私鉄も未開業の時代でした。どんな姿だったのでしょうか。

●山手線は一周していなかった 当時の山手線は、新橋~品川~渋谷~新宿~池袋~上野というルートで電車が走っていました。まだ「4分の3周」くらいだったのです。なお、当時の新橋駅は「烏森駅」という名前でした。 そもそも山手線は、新橋から西へ伸びる東海道本線、上野から北へ伸びる東北本線・高崎線という散らばった幹線どうしを繋ぐ役割をもって生まれ、旅客はある意味、二の次。そんな性質だった山手線が1909(明治42)年に電化され、旅客専用の電車が走るようになって間もない頃でした。 慶應の初優勝から3年後の1919(大正8)年、中央本線が延伸して東京駅と連結。山手線とも繋がり、中野から東京を経てさらに山手線をグルリと周って上野駅に至る電車の「の」の字運転が始まりますが、「環状」運転になるのはまだまだ先の話でした。●東急東横線は存在しなかった 現在の東急東横線が正式に誕生するのは1927年のことです。渋谷~多摩川(当時は丸子多摩川)間が最後に開業した区間でした。 つまり、慶應高校の現在の最寄り駅である日吉駅は、1916年時点でまだ存在していませんでした。もっとも、慶應高校が三田から日吉へ移転するのはずっと後、戦後の1949(昭和24)年です。●京急は開業していた いっぽう、現在の京浜急行の東京~横浜間はすでに繋がっていました。当時の社名は「京浜電気鉄道」で、川崎大師の参拝アクセス路線を皮切りに、二大都市へ順次延伸。1905(明治38)年時点で高輪~神奈川間が開業済みでした。

今は当たり前の路線もまた存在していなかった

●地下鉄も存在していなかった 日本初の地下鉄である銀座線が開業するのは、慶應の初優勝から11年後の1927(昭和2)年のことです。浅草~上野の2.2kmが先行開業しました。 それまでの東京市街の交通は、1903(明治36)年に開業した市電(当時は東京電車鉄道)が主でした。翌年には早くも、慶應高校のある三田への路線が開業しており、球児たちも市電に乗って登校していたかもしれません。●総武線のターミナルは「両国駅」だった 現在の総武線は、横須賀線と一体で成田空港から久里浜まで長距離ネットワークを構築する大動脈です。しかし1916年当時は、隅田川を渡る手前の両国駅、当時の「両国橋駅」がターミナル駅となっていました。都心へ行くには、そこから市電に乗り換えて両国橋か厩橋で川を渡ることになっていました。 隅田川を越えて御茶ノ水までつながるのは1932(昭和7)年のことです。ちなみに横須賀線のほうはすでに東京駅から直行便が出ていました。ただし「西大井経由」のルート(品鶴線)は未開業で、大船までずっと東海道線の線路を間借りしていました。

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