「これが潜水艦なのか…」アメリカを驚かせた巨大「潜水空母」 旧日本海軍の発想が与えた影響とは

日本の降伏が国民に公表される1日前の1945年8月14日、西太平洋の環礁で米艦隊を攻撃するために潜んでいた巨大な旧日本海軍の潜水艦がありました。その後はどうなったのでしょうか。

当時の基準ではかなり大きな潜水艦

 第2次世界大戦の最末期、ポツダム宣言受諾及び日本の降伏が国民に公表される1日前の1945年8月14日、西太平洋のウルシー環礁(現ミクロネシア連邦)のアメリカ艦隊を攻撃するべく潜んでいた日本海軍の潜水艦がありました。

 潜水艦の名前は伊号第四百型潜水艦(伊400型)。軽巡洋艦並みの大きさという当時の潜水艦としては異様に巨大な船体と、潜水艦にも関わらず“艦載機”を搭載しているという独創的な構造が特徴の艦でした。 同艦は、連合艦隊司令長官だった山本五十六大将が発案した艦ともいわれており、3機搭載している特殊攻撃機「晴嵐」をカタパルトから射出し、地上目標や艦船を攻撃する能力を持つため“潜水空母”とも呼ばれることもあります。 伊400となる潜水艦の建造が最初に計画されたのは、1942(昭和17)年1月のことでした。当初はアメリカ世論に影響を与えるため、アメリカ本土を攻撃可能な能力を持たせるという考えのもと、攻撃機を艦内に搭載することが考案されました。 1943(昭和18)年の時点で、潜水艦建造計画は「特型潜水艦」という名称で、伊400型は計18隻建造される計画が盛り込まれていました。ところが、戦局の悪化で計画は縮小を余儀なくされ、1944年12月30日に伊400が竣工したほか伊401、伊402の計3隻が完成したのみで、数の少なさを補うべく伊九型潜水艦をベースに改造した伊十三型潜水艦が別に2隻建造されます。

期待をかけて建造したものの活躍の場はなく

 伊400完成時は、当初の目的通りアメリカ本土である西海岸の攻撃が検討されました。しかし、1944年末から激しくなった日本本土空襲などの影響により変更され、その後、1945年5月にドイツが降伏すると、大西洋方面からの米英艦隊の移動を阻止すべくパナマ運河攻撃も計画されたものの、これも効果が薄いと変更されます。そして最終的には、米空母艦隊の停泊地であるウルシー環礁を目標とすることになりました。 この作戦には伊400、401の2隻が投入され1945年7月23日、青森県の大湊から出撃。攻撃予定日は8月17日と決まりますが、その2日前に日本は降伏してしまい、作戦は実行されることなく2隻は日本に帰還することになります。 その帰路、伊400は三陸沖でアメリカの駆逐艦「ブルー」に拿捕され、伊401も三陸沖でアメリカ潜水艦「セグンド」の乗組員に接収されます。全長122mもある潜水艦の伊400型を最初に目撃したアメリカ海軍の将兵たちは、その大きさに驚いたともいわれています。

 その後、伊400型の2隻は1946(昭和21)年1月にアメリカ本土で技術調査された後、ハワイ近海で標的艦とされ撃沈処分されました。 画期的な発想で開発された潜水艦でありながら満足な活躍の場を残すことなく沈められてしまった伊400型ですが、搭載していた「晴嵐」に関しては、アメリカのスミソニアン国立航空宇宙博物館新館で、現存機が「後世に残すべき飛行機」として展示されています。理論上は世界のどこでも攻撃が可能という、当時としては画期的な能力を持つことから、後に登場する、潜水艦発射型弾道ミサイル(SLBM)を持つ弾道ミサイル潜水艦や戦略ミサイル原子力潜水艦の発想の先取りとも言われることもあります。

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