戦争激化でも「関門トンネル」だけは造られたワケ もうすぐ80歳 旧陸軍が夢想した壮大な計画

本州と九州を結ぶ「関門トンネル」は、世界でも最初期の海底トンネルで、戦時中に完成しました。このような大掛かりな公共事業を戦時中も続けられたのは、とある理由で陸軍の後押しがあったからです。

世界初の本格的な海底トンネルといわれる

 2023年現在、本州と九州を走る関門海峡を渡るトンネルは3本あります。JR在来線の「関門トンネル」、クルマや歩行者が行き来できる「関門国道トンネル」、そして新幹線が走る「新関門トンネル」です。

 このうち一番古いのはJR在来線の「関門トンネル」で、下り線の先行開通の翌年、1944(昭和19)年8月8日に上り線も開通し上下が揃いました。当時の日本は第2次世界大戦のただ中にありましたが、同トンネルは旧日本陸軍が大きく後押しをしたこともあり、建設が続けられていました。いった陸軍にはどのような思惑があったのでしょうか。 同トンネルは世界で最初の本格的な海底トンネルであるともいわれ、20世紀の始まりごろにはすでに計画がありました。しかし1919(大正8)年に地質調査や海底調査などが始まると、工事がかなり困難で莫大な予算がかかることが判明。結局、計画の立て直しが図られますが、各省庁で揉めて全く進まず、「このまま船でいいのでは?」という論もでるほどでした。 長い論争の末、最終的に1936(昭和11)年7月には現場機関として鉄道省下関改良事務所が発足。同年の9月に九州側の小森江でようやく工事が始まりました。急に計画が具体化した背景には、当時の鉄道省の力だけではなく、陸軍が後押した影響力もありました。

陸軍が後押ししたのは大陸戦略で必要だったから?

 なぜ陸軍がこの計画を推したのかというと、本州から九州、壱岐、対馬、さらに日本が併合していた朝鮮半島を海底トンネルで繋げるという目標に近づくのでは、という思惑がありました。これは「大東亜縦貫鉄道構想」と呼ばれるもので、最終的にはこの鉄道網を満州鉄道につなげることで、満州から九州までつながる壮大な鉄道ネットワークを構築しようとしていました。 空前の規模の計画ですが、完成すれば、陸軍は大陸向けの軍需品輸送の多くを鉄道で行えるということで、海上輸送よりも安定的な補給網を確保できることになります。

 関門トンネルの起工直後に、大陸では中華民国との間で日中戦争が発生し、戦時体制となりますが、トンネル工事は続けられ、1939(昭和14)年には試掘坑道が貫通しました。1941(昭和16)年7月10日には下り線の本坑が貫通しましますが、この本坑の工事には、シールドマシンという円筒形の掘削機を使った「シールド工法」が採用されましたが、これを成功させるため、関係がいちじるしく悪化していたアメリカにまで視察へ行ったほどです。 上り線のトンネル開通は前出の通り1944(昭和19)年8月8日で、同年9月9日から複線での運用が開始されました。この時期は、第2次世界大戦も終盤で日本の敗色はすでに濃厚になり、サイパン島を喪失し、本土空襲の危機感も高まっていました。 本土空襲が始まると同時に、日本列島の島々を行き来している連絡船も狙われるようになり、さらにアメリカ軍の「飢餓作戦」とよばれる機雷による海上封鎖作戦で、日本の海上輸送力は極端に低下します。そこで重要な地位を得たのが、完成したばかりの関門トンネルで、本州と九州間の石炭や物資、さらに兵員や兵器の輸送を比較的、安全に行うことができました。 アメリカはトンネルを破壊することも計画したようですが、幸い破壊されずに残り、関門トンネルは戦後も日本の交通網における要所のひとつを担い、戦後発展に協力。同トンネルで得られた土木技術は、戦後日本の貴重な財産となりました。

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