「新横浜の私鉄」誕生まで60年もかかったワケ【前編】 駅前は長らく一面の田んぼだった

相鉄・東急新横浜線の開業により、新横浜駅は新幹線を含め5社局5路線が乗り入れる駅となりました。ただ、開業してから約60年間はJRと市営地下鉄のみ。なぜ私鉄線の進出が遅かったのでしょうか。前後編に分けて紹介します。

開発事業の着手は駅開業と同時

 1964(昭和39)年に新横浜駅が開業してからまもなく60年を迎えます。相鉄・東急新横浜線の開業により、新たな拠点として存在感が高まる新横浜ですが、現在のブルーラインである横浜市営地下鉄(3号線)が開業したのは新幹線開通から20年後の1985(昭和60)年、それからさらに40年を経て、相鉄・東急新横浜線が初の私鉄路線として2023年3月に開通しました。新横浜の鉄道整備に時間を要したのはなぜなのでしょうか。構想はどのように変遷してきたのでしょうか。

 この地域に横浜鉄道(現・JR横浜線)が開通したのは1908(明治41)年のことですが、新横浜駅はその56年後、新幹線開通と同時に乗換駅として新設されました。現代であれば新幹線開通を見越して新駅周辺の区画整理を行いますが、新横浜(北部地区)では事業着手が開業と同じ1964年、工事が完了したのは1975(昭和50)年のことでした。 そうした事情もあり、低湿地帯に広がる水田を新幹線の高架橋が貫いても駅前の風景はさほど変わりませんでした。当時の都市計画系業界誌を見ると、横浜市は「鶴見・新横浜・戸塚周辺は将来副都心として整備」するとしており、中長期的な開発を構想していたことが分かります。 実際、横浜市が1965(昭和40)年に策定した「横浜六大事業」は、「都心部強化事業(横浜駅周辺と関内周辺の機能一体化)」「金沢地先埋立事業(工業団地造成)」「港北ニュータウン建設事業」「地下鉄建設事業」「高速道路網建設事業」「横浜港ベイブリッジ建設事業」が掲げられていますが、ここには新横浜の文字は出てきません。

開発の本命は新横浜のさらに北側だった

 この頃、横浜市が直面していたのは人口問題でした。人口は1965年の223.8万人から、1975年には250万人以上(実際は277万人)、1985(昭和60)年には300~350万人(同322万人)に達する見通しであり、無秩序なスプロール化を防ぐために計画的な都市計画が求められたのです。 その目玉が新横浜からさらに北の丘陵部「港北ニュータウン」整備でした。横浜市は1967(昭和42)年に4路線からなる市営地下鉄計画を決定し、そのうち「3号線」を港北ニュータウンと新横浜駅、横浜駅、関内地区、本牧地区を直結する路線と位置づけました。新横浜は経由地のひとつにすぎず、本命はニュータウンと都心の整備だったのです。

 その後、新横浜は時代に翻弄されていきます。先述のように将来的な副都心化が想定されていたものの、区画整理の完了はオイルショック後の1975年。翌年に新横浜停車の「ひかり」2本が設定されるなどの変化はありつつも、経済の落ち込みで開発計画はストップしてしまいました。 この閉塞感を打破したのが1981(昭和56)年に策定された横浜市総合計画「よこはま21世紀プラン」です。この中で横浜市は、新幹線ネットワークの一部に位置づけられる新横浜の特性を活かして「都心臨海部を中心とする都心部に次ぐ第二の都心として都心機能を育成していく必要がある」とし、副都心ではなく“第二の都心”として整備していく姿勢を示したのです。 そのため「都心機能を立地させる場所として、開発の既成・誘導」を行い、「商業・業務等都心機能の集積」を図るため、「鉄道、街路、駅前広場等の交通施設の整備をすすめる」ことでターミナル機能を強化するとともに、都心機能集積の効果を高めるため「相模鉄道線と新横浜と羽田を結ぶ鉄道について、隣接都市等と調整をはかりながら、検討をすすめる」としました。

トリガーは東横線の混雑

 実は相鉄の都心乗り入れ構想は古く、横浜・川崎周辺の鉄道整備を答申した1966(昭和41)年の都市交通審議会答申第9号は南武線、横浜線、相鉄などを利用して東京に向かう旅客を吸収し、東海道線の混雑を緩和するために「茅ケ崎付近から二俣川、勝田(編注:港北ニュータウンの地名)付近を経て東京に至る路線」の検討を促しました。 また川崎市は1973(昭和48)年の「川崎市における交通輸送機関の最適ネットワーク形成のための調査報告書」の中で、新横浜から川崎を経由して羽田空港に乗り入れる「拠点連絡鉄道」に言及しています。 横浜市の計画はこれら検討をふまえたもので、神奈川県と横浜市、川崎市は1983(昭和58)年、「相模鉄道から横浜第二の都心として育成が図られている新幹線新横浜駅地区、業務、広域商業機能の集積が図られている川崎駅周辺地区を直結し、空の玄関口である羽田空港に至り東京都心方面へ乗り入れる」ルート素案をまとめ、運輸政策審議会に要望しました。 ここに東急が1970年代以降、輸送力増強が限界を迎えつつあった東横線の抜本的改善策として検討を進めてきた、目蒲線の改良と東横線多摩川園~大倉山間の複々線化が加わります。1985年7月の運輸政策審議会答申第7号で、二俣川から新横浜、大倉山を経由して東横線直通、一方は川崎方面に接続する「神奈川東部方面線」が登場。新横浜線の原型がほぼ出来上がりました。 加えて同年は3月14日に行われたダイヤ改正で、新横浜駅に停車する「ひかり」が6本から51本に大増便され、同時に地下鉄3号線が横浜~新横浜間延伸開業しました。新たな玄関口としての地位を築く最初の一歩とも言える年でした。 こうして見ていくと、新幹線開通から20年程度で地下鉄が開通し、新横浜の開発方針と新横浜線につながる鉄道構想が具体化したことが分かります。全く新しい街ですから、この20年は長いとはいえないでしょう。問題はその後、なぜ40年もの時間を要することになったのか。これについては後編でお伝えいたします。

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