スペインでは「エース」続々 中国では短命 東西で真逆のイタリア戦闘機 日本軍機の撃墜記録も

第2次大戦以前には近代的な戦闘機開発に遅れていたイタリアですが、複葉戦闘機では安定した性能を示して、スペイン市民戦争では多くのエースを輩出。さらに中国にも輸出されて、日本軍機を相手に戦果を挙げました。

初飛行でいきなり高性能の片鱗を披露

 第2次世界大戦では日本やドイツと軍事同盟を結んで、いわゆる枢軸陣営の一角として共闘していたイタリアですが、大戦前には中国にも各種武器を輸出しており、それらが日中戦争(支那事変)などで日本軍兵士に対して牙をむいていました。 そのような兵器のひとつに戦闘機もありました。なかでもフィアット製のCR.32型戦闘機は日本軍機にとってライバルとなった機体です。日本軍機を相手に戦果を挙げた、イタリア生まれの中国軍戦闘機について見てみましょう。 CR.32型を開発したのはトリノにあったフィアット社航空機部門のロザテッリ技士を中心とした設計チームでした。彼らは、1932(昭和7)年5月に初飛行した前型CR.30型に改良を加える形でCR.32型を生み出します。 CR.30型との主な改良点は、フレームが鉄とジュラルミンの全金属製となり、空力的に考慮された流線的なラインへと変更した点などです。これに、CR.30型譲りとなる機首プレペラ先端の大型スピナーや下部の空気取り入れ口の絞り込まれた一体化したフォルムは、後の低翼単葉機に繋がる近代的なデザインといえるでしょう。ちなみに型番の頭に付く「CR.」とは、イタリア語で戦闘機を意味する「Caccia」に、前出のRosatelli(ロザテッリ)技士の名前、双方の頭文字を組み合わせたものです。

 こうして生まれたCR.32型戦闘機は、イタリア語で「矢」を意味する「フレッチア」という愛称が付けられ、複葉機ながら1933(昭和8)年4月の初飛行でさっそく最高速度375km/h(高度3000m)、高度6000mまでの上昇に14分25秒という記録をたたき出し、単葉機に負けない当時としては上々の性能を示します。 なお、武装は機首上面にプロペラ同調式の7.7mmあるいは12.7mm機関銃を搭載していましたが、武装強化型のCR32 bis型では機首に12.7mm機関銃を2挺、下翼の左右プロペラ外側に7.7mm機関銃2挺を装備するようになります。さらに爆弾架を胴体下面に増設することで100kgまで爆弾搭載が可能となり、近接支援用の地上攻撃機としても運用できるようになりました。 こうしてバランスの取れた近代的な複葉戦闘機に仕上がっていたCR.32型「フレッチア」は、1934(昭和9)年から量産が始まり、改良型も合わせると合計1200機以上が生産され、第2次世界大戦初頭まで、イタリア空軍戦闘機隊の主力機として運用されました。 ちなみに、同機はハンガリーにも76機が輸出されていますが、そのうちの1機は、発動機を高出力なグノーム・ローム14M型空冷エンジン(750馬力)に換装して、最高速度420km/h(高度4000m)まで出し、複葉機としてのスピード記録を残しています。

スペインではエースを続々輩出

 1936(昭和11)年7月に始まったスペイン市民戦争(スペイン内戦)において、イタリアの国家指導者であるムッソリーニ統帥は、反共産主義の大義の元、ドイツのヒトラー総統と共にフランコ将軍率いる反乱軍側を支援します。そして、軍用機と共に義勇パイロットを一市民として偽名でスペインに送り込み、人民戦線政府側のソ連製援助機と激しい空中戦を行うようになりました。

 たとえば第16戦闘航空群「ラ・クカラチャ」(ゴキブリの意味)に配属されたCR.32型はドイツから派遣されたコンドル軍団爆撃隊の護衛任務も行い、ソ連製I-15型複葉戦闘機やI-16型単葉戦闘機を相手に数々の空中戦を行って戦果を挙げています。 のちに第2次世界大戦において、複葉戦闘機の分野で世界トップエースとなったイタリア人パイロットのマリオ・ヴィシンティーニ(総撃墜数19機)も、1938(昭和13)年5月23日にはI-16型2機を初撃破しました。なお、3か月後の8月24日には、再びI-16型を撃墜する戦果を挙げ、帰国前の9月5日にもさらに1機撃墜しています。 こうしてスペインでの戦争中に、イタリアは365機(405機説もあり)のCR.32型と多くの義勇パイロットを現地へと送り込み、15機撃墜のブルーノ・モンテニャッコや12機撃墜に加えて10機を共同撃墜したグイド・プレセルなどのイタリア人エースを生み出して、CR.32型「フレッチア」戦闘機の高性能ぶりを証明してみせました。 また、フランコ反乱軍側でも130機近くのCR.32型が使用されており、5機以上を撃墜したスペイン人エースを33名輩出しています。中でも40機撃墜に加えて共同撃墜4機、未確認撃墜13機という、第2次世界大戦前としては破格のスーパーエース、ホアキン・ガルシア・モラート・カスターノのようなスターまで誕生させたほどです。

中国でも挙げた日本軍機撃墜の戦果

 一方、当時のイタリアは、アジアにおける利権や外貨獲得も目指していました。そこで、目を付けたのが、新たに誕生した中華民国空軍でした。彼らは1933(昭和8)年に、中国側からの要請で、技術教育や中国人搭乗員を訓練するために、総勢150名の顧問団を派遣します。そして新生空軍の組織再編成から予算管理まで行うことで、顧問団の団長に君臨していたロベルト・ロルディ大佐は、中華民国(当時)の指導者であった蒋介石から厚い信任を得ることに成功しました。 そうしたイタリアと中国との蜜月時代の中、1933(昭和8)年から1935(昭和10)年にかけて13機のフィアットCR.32型戦闘機が中国に輸出されます。 なお、このときは他にもブレダBa.27型戦闘機11機、フィアットBR.3型複葉爆撃機23機、カプロニCa.111型輸送機6機、サヴォイア・マルケッティSM.72型輸送機6機、カプロニCa.101型爆撃機14機、ブレダBa.25型複葉練習機20機なども一緒に輸出されており、いかにイタリア空軍顧問団が蒋介石率いる中華民国政府から信頼されていたか、わかるでしょう。

 中国へ輸出されたCR.32型は、自国製の7.7mmブレダSAFAT機関銃の代わりに、イギリス製の7.7mmヴィッカース機関銃を搭載していました。なお、中華民国空軍司令部では、この前近代的な設計の複葉戦闘機をそれほど評価していなかったようです。 それでもアメリカ製のカーチス・ホーク複葉戦闘機やボーイングP-26単葉戦闘機との比較テストでは優れた性能を示したことから、現場部隊には好評であったと伝えられています。 しかし、ガソリンとオイルを混ぜる手間が必要な混合式の航空燃料は運用が複雑であり、加えてフィアット社から追加の整備用部品が送られてくることもなかったことなどから、日中戦争前の1936(昭和11)年5月には、事故や故障によりCR.32型の稼動機は半分以下の6機にまで減少していました。 それでも、1937(昭和12)年8月の日中戦争緒戦において、首都南京(当時)の防空戦に出動した中華民国空軍の第3航空群第8戦闘機隊に所属するCR.32型は、8月15日に2機で日本海軍の九六式陸上攻撃機1機を共同撃墜する戦果を挙げています。これは極東におけるイタリア製戦闘機による初めての撃墜記録と言えるものです。 ただ、12月の南京陥落までには第29戦闘機隊所属のブレダBa.27型戦闘機と共に全機が失われてしまったことで、中国のイタリア戦闘機はその短い戦歴を閉じたのでした。 極東アジアのイタリア製軍用機というと、旧日本陸軍のフィアットBR.20爆撃機、通称「イ式重爆撃機」が有名ですが、実は中国でも運用されており、その一部は日本軍に対して手痛い反撃を食らわしていたのです。

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