幻の「地下鉄山手線」計画とは? 東急がガチで考えた「ハイパー副都心線」の顛末

かつて東京の地下鉄整備構想に、「地下鉄山手線」なる謎の路線が挙げられていました。結局それは正式計画とならず幻に終わってしまいましたが、いったいどんな路線で、どんな経緯があったのでしょうか。

歴史に名を残さなかった幻の東京地下鉄

 かつて東京の地下鉄整備構想に、「地下鉄山手線」なる謎の路線が挙げられていました。結局それは正式計画とならず幻に終わってしまいましたが、いったいどんな路線で、どんな経緯があったのでしょうか。

 これには、戦後に策定された「副都心」計画が背景にあります。 1日平均約52万人(2021年度)の乗車人員を誇るJR新宿駅。私鉄を含めれば100万人を超える日本最大の駅です。1950年代以降、丸の内、日本橋、銀座など「都心」一極集中が問題になると、広大な敷地を持つ新宿駅を「副都心」に定め、新たなターミナルとする構想が浮上します。1965(昭和40)年に新宿駅西口にあった淀橋浄水場が廃止されると、跡地はいよいよ近代的な高層ビル群に生まれ変わりました。

 国鉄は新たな通勤路線「中央・総武開発線」「東海道・東北開発線」や、「上越・北陸新幹線」「中央新幹線」を新宿駅に集約し、ここに計画中の地下鉄10号線、12号線、13号線が乗り入れる「大新宿駅構想」を立てます。 そんな中、運輸省が1974(昭和49)年にとりまとめた「新宿副都心総合整備計画調査報告書」に、池袋方面から新宿副都心を通り、渋谷方面に向かう「地下鉄山手線」なる謎の路線が記されています。これとは別に、山手線の東側には13号線、つまり現在の副都心線の記載も。 この「地下鉄山手線」は、地下鉄整備方針をとりまとめる都市交通審議会の答申にも登場しないものですが、三井物産が1973(昭和48)年5月22日に公表した「地下鉄山手線計画調査報告書」に実像が記されています。

「地下鉄山手線」その詳細な実像とは

 調査、計画を担ったのはアーバン・インダストリーという東急系のデベロッパー(開発事業者)。決して絵空事ではなく、東急グループとして本気で検討していた構想だったことが分かります。 報告書は「都市機能の過度で無秩序な集中によって危機状態にある首都東京のその中でも、その核心部である千代田・中央・港の都心3区は、殊更、中枢管理機能を中心とする人口と産業が極度に過密化し、種々の社会的弊害を惹起しつつあるのが現状」との文言から始まります。 都心一極集中を脱するため、将来は全国新幹線網の拠点になり、再開発余地の大きい渋谷・新宿・池袋に注目が集まりますが、3つの副都心の弱点は「個々に発展し相互の連携が弱いこと」でした。そこで考案されたのが「地下鉄山手線」です。 東武東上線大山駅から分岐し、池袋駅西口(西口五差路交差点付近)、新宿駅西口(現在の京王プラザホテル付近)、渋谷駅西口(現在のセルリアンタワー東急付近)を経由し、東急東横線中目黒駅まで約14kmの地下線で接続し、東武から東急へ相互直通運転することで、3副都心の連携を強化し新都心を形成しようというのが目的でした。 建設は東急や東武など関係機関が共同出資する新事業体が担当。ちょうどこの報告書公表の5年前、1968(昭和43)年に、鉄道車両と乗務員を持たず鉄道施設だけを保有する鉄道会社「神戸高速鉄道」が開業していますが、地下鉄山手線の新事業体も、これと同様の役割を果たすことが想定されました。 駅は大山、下板橋、北池袋、池袋、東落合、小滝橋、大久保、新宿、参宮橋、代々木公園、松濤、渋谷、中目黒の13駅を設置。東武の大山~池袋間、東急の中目黒~渋谷間については、京王線と京王新線のような「分岐並行線」ではなく、新線と入れ替わりに旧線を廃止するというものでした。 池袋、新宿、渋谷はいずれも従来のターミナルから離れた位置に駅が置かれますが、新旧ターミナル間は動く歩道で接続する構想でした。大山~新池袋は東上線、中目黒~新渋谷は東横線の改良区間としての位置付けで、池袋~渋谷間の利用は別途初乗り60円(営団地下鉄は当時40円)の運賃がかかる立て付けでした。

難工事の想定も「先見の明」で克服、しかし…

 試算された建設費は約1070億円でしたが、ちょうど同じ時期に整備された東急新玉川線(現在の田園都市線渋谷~二子玉川)の工費が想定の倍以上にふくれ上がったことをふまえれば、到底収まるものではなかったでしょう。 当時、私鉄各社は運賃改定が遅れたため鉄道事業は赤字だったこともあり、これほどの大事業を遂行できたかは疑問が残るところです。しかしこの構想は既設線の廃止により生み出される計17ヘクタールもの跡地に高層ビルを建設する大規模再開発とのセットであり、事業全体として利益を生み出す狙いだったのでしょう。 また当時、超過密状態の山手線を救済する並行路線として、地下鉄12号線、13号線が計画され、さらに山手貨物線の旅客化(常磐開発線=後のつくばエクスプレスの乗り入れ等)、環状道路6号線地下鉄などの将来構想も存在しましたが、報告書では、山手線貨物線旅客化は千葉・茨城など中距離からの利用が中心となり、山手線内側の既存市街地を走る13号線とは役割分担が可能との見解が示されています。 道路下は開削工法、民地下はシールド工法を用いる計画でした。当時の報道を見ると地下深いシールドトンネルは地上地権者に補償せずに建設できる、現在でいう大深度利用のような制度創設を想定していたようですが、実現せず。地上に道路がない区間の建設は困難でした。 しかし、この構想にとどめを刺したのは調査報告書の発表から半年後に発生したオイルショックでした。これにより高度成長は完全に終焉し、壮大な開発計画は現実味を失ってしまったのです。 それでも、この構想からちょうど40年の時を経て始まった東横線、副都心線、東上線の直通運転の原点にはこの「地下鉄山手線」構想があったのではないでしょうか。

externallink関連リンク

なんて短い4両編成の「山手線」見た目ド派手! 車内ではカレーとコーヒーを堪能 やっぱり廃線跡だった! 東京「鉄道ファン目線でアヤシイ小道」5選 なぜ品川駅に地下鉄が通っていないのか 実は「ある」? そして2路線目も?
externallinkコメント一覧

コメントを残す

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)