浮世絵師・河鍋暁斎が描いた「極楽行きの汽車」という極楽絵図

「鬼才」と冠された浮世絵師のひとりに、江戸末期から幕末・明治を生きた河鍋暁斎(かわなべきょうさい、1831~89)がいる。日本の「洋館」の基礎を築いたイギリス人建築家、ジョサイア・コンドル(1852~1920)をも弟子とした暁斎は多くの個性的な作品を残したが、彼が生きた激動の日本を色濃く反映した1枚の絵がある。それは全部で35図描かれた極彩色の『地獄極楽めぐり図』のうちの34図、明治5(1872)年7月の署名がある「極楽行きの汽車」だ。 この年は日本という国にとって、記念碑的な年でもあった。それは、今日では当たり前に我々が使っている鉄道が、新橋(後の汐留)~横浜間で、旧暦の10月14日に開通した年だからだ。その一大ムーヴメント前に、暁斎が「鉄道」を「極楽世界」の中で描いていたのが衝撃的なのだ。

■長い歴史をもつ地獄・極楽絵図

暁斎が描いた「極楽図」、すなわち阿弥陀如来の浄土、西方極楽浄土世界を描いた絵、そしてこの世で悪い行いをした者が死後に落ちるとされる、苦しみに満ちた世界を図像化したものが「地獄絵」だ。それらは本来、仏教が国を挙げて奉じられていた頃、「極楽図」であれば、7世紀末から8世紀初頭に描かれた、法隆寺金堂の壁画が最古のもので、「地獄図」の方は奈良時代(710〜794)に造られた東大寺二月堂の本尊、金銅(こんどう。銅に金メッキや金箔をおしたもの)製十一面観音像の光背(こうはい)に施された彫り物が最も古いとされている。

それらの表現は決して廃れることなく、脈々と日本の歴史の中で文学とリンクするような格好で続いてきた。

■対の関係となっている地獄と極楽

平安時代(784~1185)になると、浄土信仰を広く国中に広めた源信(げんしん、942~1017)の『往生要集』(985年)に基づいて、僧が人々に仏の教えを説く際、「因果応報」「輪廻転生」の最悪な状況、すなわちこの世で罪業を重ね続けた者が堕ちる場所である「地獄」の悲惨さ・苛烈さ・残酷さ・恐ろしさを強調することによって、逆にそうした苦を逃れるためには仏への強い信仰、そしてそれによって阿弥陀如来の浄土である、西方にあるとされる極楽を欣求(ごんぐ。喜んで道を願い求めること)することの、この上ないすばらしさ、重要性を対比させた。つまり「極楽」と「地獄」は、キリスト教における「天国」と「地獄」同様、互いになくてはならない相補的な関係でもあったのだ。

■室町時代、江戸時代の地獄極楽絵図

しかもこうした地獄絵や極楽絵を描き、それを今日でいう「テキスト」として用い、更に不特定多数の人々の前で「プレゼンテーション」を行うことは、その時代のみで消え去ることはなかった。

例えば室町時代後期~江戸時代初期において、戦乱による国内の乱れに伴い、信仰、或いは経済基盤が揺らいでいた、紀伊半島南部の聖地・熊野三山に属していた女性宗教者・比丘尼(びくに)らは、その維持・保存のために喜捨を求め、血の池地獄や賽の河原などが新たに付け加えられた「観心十界図(かんしんじゅっかいず)」と呼ばれる曼荼羅(まんだら)を携行し、多くの人々の前で絵解きをしながら、全国を経巡っていた。

江戸時代に入ると、加賀藩によって篤く保護された山岳信仰の聖地・立山(たてやま、現・富山県)信仰が、その拠点となっている芦峅寺(あしくらじ)や岩峅寺(いわくらじ)の僧侶たちによって、熊野比丘尼と同様に、地獄や極楽が鮮烈に描かれた「立山曼荼羅」を携えて全国に広められていった。

こうしたことから、巷には多種多様な地獄絵や極楽絵、十王(じゅうおう。閻魔王をはじめとする、冥界で死者を裁く十人の王)図、六道(ろくどう。地獄道・餓鬼道・畜生道・阿修羅道・人道・天道)図、十界(じっかい。六道に加え、声聞・縁覚・菩薩・仏の四聖を合わせたもの)図など、多種多様なものが流布した。そしてそれらは主に、正月や盆明けの16日、彼岸などの重要な日に、参拝客の前で僧侶らによって絵解きがなされ、地獄の恐ろしさや仏の功徳がわかりやすく、かつ微に入り細に入り、示されてきたのである。

■河鍋暁斎が描いた「地獄極楽めぐり図」

ころで河鍋暁斎が描いた、『地獄極楽めぐり図』(1869~72)だが、現在は東京・丸の内の静嘉堂(せいかどう)文庫美術館に所蔵されている。しかしこの絵はもともと、暁斎のパトロンで、嘉永4(1851)年から、恐らく明治18(1885)年ぐらいまで日本橋大伝馬町で、明治維新(1868~1889年)以降は時流に乗った「洋物」の小間物問屋を営み、「月之輪」という俳号を有していた好事家・勝田五兵衛(?~1881?)の依頼で、明治2(1869)年に14歳の若さで亡くなった五兵衛の娘・田鶴(たつ)への追善(ついぜん。身内の者が死者の冥福を祈って、仏事を執り行うこと)のために描かれたものだ。まず田鶴は臨終の際に来迎した阿弥陀三尊と共に、冥界に旅立つ。その中で、過去に亡くなった親族と再会したり、勝田家が贔屓にしていた歌舞伎役者・五代目尾上菊五郎(1844〜1903)を描いている浮世絵師・三代目歌川豊国(1786〜1865)の画室を訪問したりする。更に阿弥陀如来と閻魔たちとの酒宴の後、種々の地獄や閻魔の裁きの様子を遠目に眺める。長く楽しい旅を楽しんだ田鶴は極楽往生を遂げ、最後に仏となる。これらの大部分が田鶴の一周忌である翌3年に完成したのだが、今回取り上げる第34図の「極楽行きの汽車」は、明治5(1872)年7月に描かれたものである。

暁斎の娘で、同じく日本画家として活躍した河鍋暁翠(きょうすい、1868~1935)によると、田鶴は観音様が仮のお姿を宿されているかのように慈悲深く、店に出入りする人々はもちろんのこと、路傍の物乞いたちにも、金銭やいろいろな物を施していた。それはさながら、仏心によって人の心を明るくしたり、生きるための光を導き出したりする「ろうそく」を人の袂に入れてやるかのような優しさだったことから、多くの人たちから崇められていた。そのため、田鶴が亡くなった後、勝田家の人々の悲嘆はもちろんのこと、田鶴の恵みに預かった多くの人たちまでもが、ささやかな供物や香華を捧げたという。人々が嘆き悲しむ様子は、『地獄極楽めぐり図』第1図に、そして田鶴の葬儀の様子は、第7、8図に描かれている。

■「極楽行きの汽車」とは

話を「極楽行きの汽車」に戻そう。田鶴は絵の左上、雲に乗った天女たちの一群の中、赤い着物をまとい、勝田家の家紋・澤瀉(おもだか)で飾られた宝冠をつけ、そばの天女から、鳳凰がてっぺんを飾る天蓋をさしかけられている女性であると考えられる。そして絵の右下、天女たちに背を向けて走る陸(おか)蒸気のそばには、馬頭の車夫が引き、後ろからヤギ頭の車夫が押す豪勢で、ここにも澤瀉紋が描かれた人力車に乗った2人の子どもがいる。美術史家の曽田めぐみによると、勝田家の菩提寺である台東区西浅草の日輪寺(にちりんじ)の過去帳を調べたところ、この子どもたちは、田鶴のいとこで、絵が描かれた明治5年に亡くなった「愛蓮妙相童女」と「遊夢善童子」の可能性が大きいという。それゆえ、この絵は田鶴の追善のみならず、この2人の追善のために制作されたのではないか。しかもこの絵の下絵には、人力車の屋根の上に犬とだるまが描かれており、それらはともに当時、疱瘡除け(ほうそうよけ)にご利益があると考えられていたことから、この2人が疱瘡で亡くなった可能性があると述べていた。

また、列車に並んで座っている2人の男性については不明だが、陸蒸気の後部壁面上の左右にもまた、澤瀉紋が描かれていることから、勝田家ゆかりの人物と考えられる。

文明開化の世にふさわしく、仏教の教導のために長年用いられてきた『極楽地獄めぐり』ですら、最新鋭の蒸気機関車が登場する方がいいのか。それとも「伝統」を護持し、雲または光に乗って移動するように描かれるべきだったのか。

■谷中の瑞輪寺に眠る河鍋暁斎


東京都台東区谷中(やなか)に、日蓮宗の寺院・瑞輪寺(ずいりんじ)がある。本堂を正面に見た右端に、大きなカエルが伏しているように見える、特徴的な石を乗せた墓がある。暁斎の墓だ。かつて「狂斎(きょうさい)」と名乗り、「変わり者」で知られた暁斎らしいものだと言える。暁斎は134年前に亡くなっているので、もうすでに極楽往生していることだろう。しかし今もまだ、地獄極楽めぐりの旅の途中かもしれない。自身が田鶴追善のために描いた絵のような、豪奢な「陸蒸気」に乗っているのだろうか。1889(令和5)年の今、すっかりそれは、主に1960年代(昭和35年~)以降のエネルギー革命前、蒸気機関車が当たり前の乗り物だった頃を知るシニア世代の郷愁を誘い、或いは「近代化遺産」、なおかつ貴重な「観光資源」化した乗り物となってしまっているが…もしかしたら、近い将来に実現するはずのリニアモーターカーか。それとも最新鋭のドローンにでも乗って、地獄極楽めぐりを楽しんでいるのか。その一連の様子を、ゼロ世代の若いアーティストが描くのか。それとも画像生成AIか。いずれにせよ、どんなものになるか、とても楽しみだ。

■参考資料

■吉田暎二『浮世絵事典 <定本> 上巻』1974年 画文堂
■篠田鑛造『明治開化綺談』1947/1975年 角川書店
■田村隆照・五来重「地獄草子」国史大辞典編集委員会(編)『国史大辞典』第6巻 1985年(732頁)吉川弘文館
■田村隆照「地獄変相」国史大辞典編集委員会(編)『国史大辞典』第6巻 1985年(733-734頁)吉川弘文館
■佐々木静一「河鍋暁斎」下中弘(編)『日本史大事典』第2巻 1993年(474頁)平凡社
■粟津潔「絵図で見る江戸東京 5 狂斎そして暁斎へ」『東京人』1995年5月号(116-117頁)都市出版
■木下直之「百物館名物記 11 河鍋暁斎『地獄極楽めぐり図』」『茶道誌 淡交』1996年5月号(50-52頁)淡交社
■加美山史子「第4回 暁斎研究発表会 勝田五兵衛と藤田家に関する一考察」 『暁斎 Kyosai 河鍋暁斎研究会会誌』第42号 特別号 1997年(32-41頁)河鍋暁斎記念美術館/河鍋楠美
■高達奈緒美「極楽図」大島建彦・薗田稔・圭室文雄・山本節(編)『日本の神仏の辞典』2001年(509頁)大修館書店
■高達奈緒美「地獄絵」大島建彦・薗田稔・圭室文雄・山本節(編)『日本の神仏の辞典』2001年(590-591頁)大修館書店
■小林忠(監修)『別冊太陽 浮世絵師列伝』2006年 平凡社
■稲垣進一「地獄絵」国際浮世絵学会(編)『浮世絵大事典』2008年(222頁)東京堂出版
■狩野博幸・河鍋楠美『反骨の画家 河鍋暁斎』2010年 新潮社
■田中康雄『江戸商家・商人データ総覧』第3巻 2010年 柊風舎
■老川慶喜「鉄道」宮地正人・佐藤能丸・櫻井良樹(編)『明治時代史大事典』第2巻 2012年(744-745頁)吉川弘文館
■曽田めぐみ「河鍋暁斎筆「地獄極楽めぐり図」と勝田家菩提寺」『待兼山論叢 美学篇』第46号 2012年(29-53頁)大阪大学
■曽田めぐみ「河鍋暁斎筆「地獄極楽めぐり図」再考 −幕末明治の表象と追善供養のかたち−」『美術史』第175号 2013年(53-67頁)美術史学会
■山下裕二(編)『日本美術全集 第16巻 幕末から明治時代前期 激動期の美術』2013年 小学館
■老川慶喜『日本鉄道史 幕末・明治篇』2014年 中央公論新社
■中村元・福永光司・田村芳朗・今野連・末木文美士(編)『岩波 仏教辞典 第2版』1989/2002/2014年 岩波書店
■曽田めぐみ「第33回 暁斎研究発表会 河鍋暁斎筆《地獄極楽めぐり図》について(二) −勝田家と五代目尾上菊五郎」『暁斎 Kyosai 河鍋暁斎研究会会誌』第112号 2014年2月号(7-9頁)河鍋暁斎記念美術館/河鍋楠美
■河鍋楠美(監修)三菱一号館美術館・公益財団法人河鍋暁斎記念美術館(編)『画鬼・暁斎 KYOSAI –幕末明治のスター絵師と弟子コンドル』2015年 三菱一号館美術館
■曽田めぐみ「第36回 河鍋暁斎研究発表会 河鍋暁斎筆《地獄極楽めぐり図》について(五) −第37図 「極楽行きの列車」と下絵との比較を通して」『暁斎 Kyosai 河鍋暁斎研究会会誌』第117号 2015年6月号(23-29頁)河鍋暁斎記念美術館/河鍋楠美
■曽田めぐみ「第39回 河鍋暁斎研究発表会 河鍋暁斎筆《地獄極楽めぐり図》について(八) −第22図 「極亡き親族との再会」に見る暁斎の仏画学習」『暁斎 Kyosai 河鍋暁斎研究会会誌』第121号 2016年1月号(26-30頁)河鍋暁斎記念美術館/河鍋楠美
■老川慶喜『河出ブックス107 鉄道と観光の近現代史』2017年 河出書房新社
■曽田めぐみ「第44回 河鍋暁斎研究発表会 河鍋暁斎筆《地獄極楽めぐり図》について(十一) −第36図 「田鶴遺愛の品々」に描かれた茨木の鬼女と渡辺綱について」『暁斎 Kyosai 河鍋暁斎研究会会誌』第128号 2019年3月号(5-7頁)河鍋暁斎記念美術館/河鍋楠美
■静嘉堂文庫美術館(公益財団法人 静嘉堂)(編)『旅立ちの美術 ”Departure” in Arts』2021年 静嘉堂文庫美術館(公益財団法人 静嘉堂)
■竹内正浩『鉄道歴史散歩 東京・関東編』2021年 宝島社
■東京ステーションギャラリー・冨田章・田中晴子・柚花文・若山満大・半澤紀恵(編)『鉄道と美術の150年 Art and Railway – 150th Anniversary of Railway in Japan』2022年 左右社
■「所蔵品紹介 絵画」『静嘉堂文庫美術館』
■『公益財団法人 河鍋暁斎記念美術館』 
■『本山 慈雲山 瑞輪寺』 
■「寺院ページ:慈雲山 瑞輪寺 東京都台東区」『日蓮宗』
■「立山曼荼羅と立山信仰」『The Japan Alps』
■「熊野三山を支えた女性宗教者」『み熊野ねっと』
■「熊野観心十界図」『ひょうご歴史ステーション デジタル展覧会』
■「立山の歴史 立山信仰のあらましと、近代登山の歴史」『立山黒部アルペンルート』
■「神田山日輪寺 平将門公の首塚地に創建、佐倉藩主堀田氏の菩提寺」『猫のあしあと』

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