分子生物学者・村上和雄が説いたサムシング・グレートと現代的宗教

生命には、生まれて、死ぬことに意味はあるのか。世界のすべては単なる偶然で、私たちの命も偶然の産物に過ぎないのだろうか。私たちを生み出し、やがて帰っていく大きな存在があるとしたら。

■サムシング・グレートとは

分子生物学者・村上和雄(1936〜2021)は遺伝子研究の最前線で、遺伝子の配置、構成などを研究すればするほど、そのあまりの見事さに偶然ではありえないと驚愕し生命の神秘、その根底に何らかの意思を感じ取ったという。

―ヒトの遺伝情報を読んでいて、不思議な気持ちにさせられることが少なくありません。これだけ精巧な生命の設計図を、いったいだれがどのようにして書いたのか。もし何の目的もなく自然にできあがったのだとしたら、これだけ意味のある情報にはなりえない。 まさに奇跡というしかなく、人間業をはるかに超えている。そうなると、どうしても人間を超えた存在を想定しないわけにはいかない。そういう存在を私は「偉大なる何者か」という意味で十年くらい前からサムシング・グレートと呼んできましたー(村上和雄/生命の暗号)

そんな遺伝子という精緻な設計図を書いたのは誰なのか。人によっては「神」「仏」「天」などと呼ばれる、人知を超えた大いなる存在。村上はそれを「サムシング・グレート」と名付けた。
宇宙に生命が偶然に生まれる確率は「一億円の宝くじに百万回連続して当たる」くらいの大奇跡だという。「あまりにもよく出来過ぎている」宇宙、自然の仕組みに超越的な意思を見出すことは歴史上よくある。17世紀のいわゆる「科学革命」(Scientific Revolution)の背景にはキリスト教があった。ガリレオは「神は二つ書物を書いた。一つは聖書、もう一つは自然である」との言葉を残している。

■疑似科学としての批判

アメリカでは進化論と対立する「創造論」や、創造論から特定の宗教色を抜き、非人格的な宇宙的な知性を想定する「インテリジェント・デザイン論」(ID論)などが、科学側からどれほど強力な反論や皮肉に合っても一定の勢力を保っている。「サムシング・グレート」はID論とよく似ており村上も親和性を認めていた。つまり疑似科学的な要素が強く「サムシング・グレート」は科学的理論とは言い難い。そもそも物質の事象に何らかの知性・意思を介在させる目的論的な概念は自然科学ではタブーである。事実、村上は本分の科学論文ではサムシング・グレートについて言及していないそうである(藤井、2014)。 つまり村上自身サムシング・グレートを科学的とは考えていなかったようだ。しかし筑波大学で教鞭を取っていた遺伝子の専門家が放つ言葉は、一般には説得力がありすぎたようで教育現場などでも影響を及ぼしている。科学至上主義の行き過ぎには懸念を抱くべきである。しかし科学でないものを科学として扱う疑似科学の問題は全く別である。「サムシング・グレート」の概念は、むしろ科学では割り切れない領域で語られるべきではないか。

■宗教的意義

「サムシング・グレート」は自然科学というより、現代社会の宗教観として考えることで意味が生まれる。〜神や〜仏といった特定の神仏や宗教観に縛られない超越的存在の想定は、既存の宗教を包括する存在ともいえる。宗教哲学者・ジョン・ヒック(1922〜2012)は、神は多くの名を持つとする宗教多元主義を唱えた。世界中の様々な宗教的真理は、「究極的なリアリティ」を、風土、人種、文化などのフィルターを通して、それぞれ異なる形で表現され理解しているという説である。つまりあらゆる宗教は突き詰めれば同じということである。「サムシング・グレート」は、天理教の信者でもあった村上が、遺伝子工学というフィルターを通して認識した究極的リアリティであり、ヒックの言う究極的リアリティそのものに近い。

近現代社会は科学的世界観が基本ルールである。生命分野ならダーウィン進化論だろう。生物は自然淘汰と突然変異によって進化し、生存競争に勝ち抜いたものが生き残る。つまり「弱肉強食」が自然の法則である。最近イェール大学助教・成田悠輔氏が「高齢者は集団自決するべき」との趣旨の発言をして波紋を広げている。その真意はともかく言葉だけを捉えれば「弱肉強食」であり、進化論的には自然の法則=物理法則に沿った正論ということになる。

しかし生命に大きな意思が介在しているとすればそこには何らかの意味があるかもしれず、勝手に死ぬことは許されない。どちらが真相なのかはまさに人知の及ぶところではないが、こうした時代にあって「サムシング・グレート」のような宗教的概念の必要性を感じる。

■現代的な宗教として

科学的世界観は神や霊魂、あの世などの不可視の存在を否定する。人体も科学法則に支配されるモノである。しかしそれでは「なぜ生まれ、なぜ生きて、なぜ死ぬのか」の問いには答えられない。大いなる意思「サムシング・グレート」の下で、私たちは人生を与えられ、その生と死には何らかの意味がある。そして、役目が終われば「サムシング・グレート」に帰っていく…そのように思うことで、人生の不条理や終末期などから救われる人もいるだろう。科学的知見から始まり、かつ怪しげな教祖や組織とも無縁な現代宗教としての展開が望まれる。

■参考資料

■村上和雄「生命の暗号」サンマーク出版(2012)
■村上和雄/矢作直樹「神(サムシング・グレート)と見えない世界」祥伝社(2013)
■藤井修平「日本における反進化論思想と道徳教育の結びつき―『サムシング・グレート』を例に」『ラーク頼り』64号 宗教情報リサーチセンター(2014)

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