
アメリカの航空機メーカーであるダグラス社は、かつて名作レシプロ旅客機を数多く作ってきましたが、そのなかでも製造機数が著しく少なかったのが「DC-5」です。なぜマイナー機で、どのようなものだったのでしょうか。
高翼式&脚の位置に独自性
かつてアメリカにあった航空機メーカー、ダグラス社(現在はボーイング社の一部)は、第二次世界大戦前後にかけ多くのヒット機を相次いで生み出し、ロッキード社とともにアメリカの航空機メーカーで確固たる地位を築いていました。代表的なものは、軍用型輸送機が大量生産されたDC-3(軍民含め1.5万機以上)、大型プロペラ旅客機の最初の型であるDC-4(同1200機以上)、「レシプロ旅客機の傑作」とまで称されたDC-6(700機以上)などです。 そのようななかで、わずか12機しか製造されなかった、超マイナーなモデルが存在します。それは1939年2月20日に初飛行したDC-5です。なぜヒット機にならなかったのでしょうか。
DC-5は、全長が約20m、翼幅が約25mの大きさで、約20名の乗客を乗せられます。先代機であったDC-3と比較すると、ひと周りほどキャパシティの小さな旅客機といえるでしょう(型式の番号が一つ前のDC-4は1942年に初飛行)。飛行速度は約300km/h、飛行可能な距離は約2500kmです。左右の主翼には各1基、ピストン・エンジンを装備し、3枚のプロペラで推力を発生します。 そして、DC-5は、実は当時としては画期的な設計が施されていました。 それは旅客機としては初めて胴体の上部に主翼を配置する高翼形態が採用されていたことと、脚を操縦席下部に配置した最初の旅客機であったことです。地方間の短距離を結ぶ「コミューター機」を中心に、現代の旅客機としては一般的なこのデザインは、このDC-5が元祖だったのです。 この脚の配置により、従前の尾輪式と比べると、パイロットの地上視界がより改善。高翼式とすることで、エンジンと地面の離隔を確保しやすくなることから、胴体の高さを地上に近づけることもでき、乗客の乗り降りをスムーズにすることにも繋がりました。 DC-5の設計の中心となったのは、アメリカ海軍の軍用機を開発したエド・ハイネマン氏。DC-5の独特の外形はDB-7という攻撃機を拡大して開発しされたことに由来します。
「DC-5」はなぜここまで売れなかったのか?
DC-5がほかのダグラス社製レシプロ旅客機と比較して、著しく製造機数が少なかったおもな要因とされているのは、ちょうど、第2次世界大戦下の混乱期とでデビューが重なってしまったからだったとされています。 当時のダグラス社では軍用機の製造を強化するべく、DC-5の生産ラインが大きく減らされてしまったのです。戦後においても、多く残った軍用のDC-3(C-47)を民間転用する方針が採用されたため、DC-5の生産が復活することはありませんでした。 DC-5を発注した航空会社はオランダのKLM航空のみで、残りは軍用で用いられました。なお、このKLMが購入したDC-5のうち1機は、東南アジアのオランダ領であったジャワ~オーストラリア線で使用されていましたが、1942年の旧日本軍の進攻によって占領された際に1機が旧日本陸軍に接収されました。この機体は、飛行可能な状態に整備され、日本へ飛行し、昭和17年に羽田飛行場で開催された鹵獲機展示会に展示されました。 ちなみに、当時のボーイング社の社長であったウィリアム・ボーイングが、DC-5の試作一号機を購入して、自家用機として使用していたとか。もしかすると、開発時期さえずれていれば、他のダグラス社の旅客機に引けをとらない名機となったかもしれません。