分倍河原駅の武将らしき騎馬像、誰? JR南武線に背を向けているワケ

JR南武線の分倍河原駅ホームから南側を見ると、武将の騎馬像が目に入ります。この誰もが知るであろう武将は、ここの駅名と同じ名称が付いた戦いで勝利を収めています。そして最期を、遠く離れた越前国で迎えています。

なぜ武将は駅を背にしている?

 JR南武線の分倍河原駅(東京都府中市)ホームから南側を見ると、馬にまたがり刀を振り上げた武将の像が目に入ります。ただし、この位置からは武将の背中しか見えません。いったい何者でしょうか。かつて駅前で合戦があったのでしょうか。

 武将の正面に回り込むと、台座には「新田義貞公之像」とあります。新田は鎌倉時代末期の武将であり、また幕府をわずか15日で滅ぼしたことでも知られます。ではそのような新田の像が、なぜ分倍河原駅前にあるのでしょうか。 それは鎌倉幕府が滅亡する1週間前、1333年5月中旬に「分倍河原の合戦」が起こったから。この場合の分倍河原は文字通り“川原”を指し、『太平記』によれば現在の府中市内の多摩川河畔で戦われたとされています。現在の駅前が主戦場だったわけではありません。 そもそも新田は同月8日、討幕のため現在の群馬県太田市で挙兵。武蔵国を南下し、各地で幕府軍と交戦します。戦いは新田軍有利に進み、幕府軍はまさに背水の陣のごとく分倍河原へ追いやられました。 15日、新田軍が幕府軍へ総攻撃を仕掛けます。しかし、前日までに援軍を受けていた幕府軍が新田軍を追い返します。火の海と化した現在の国分寺市を横目に、新田軍は一時退却しますが、こちらも援軍を受け翌16日に幕府軍を再度攻撃。ここに勝利を収めました。いよいよ新田軍は多摩川を渡り、鎌倉へ向け進軍。連戦連勝の末ついに22日、幕府を滅ぼしたのでした。 駅前の騎馬像は1988(昭和63)年5月、府中市が地元の歴史を後世に残そうと建立したもの。なお冒頭で、新田義貞が駅を背にしていると述べましたが、それは鎌倉の方角を見ているためだそう。 なお、京王線の中河原駅(同)から徒歩10分ほどの場所には、「分倍河原古戦場碑」が建立されています。

義貞の名まんまの駅「新田塚」

 新田義貞に関連の深い駅がもうひとつあります。えちぜん鉄道三国芦原線の新田塚駅(福井県福井市)です。 討幕に成功し、政治の中枢に身を置いた新田でしたが、時は南北朝時代。南朝方である後醍醐天皇に付き従い越前国を拠点にしますが、1338年7月、新田は藤島の戦いで北朝の足利軍に敗北、戦死。遺体は長崎道場(現・称念寺:福井市)に埋葬されたといいます。

 時代が下った江戸初期、付近で百姓が偶然にも兜を発見。兜は新田が身に着けていたものだと鑑定されます。その後、同地は「新田塚」と呼ばれるようになり、さらに時代が下った1924(大正13)年に、戦没地は「燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地」として国指定の史跡となりました。 現在は伝説を由来とした福井市の町名として、新田塚と新田塚町が存在します。なお新田塚駅から史跡までは徒歩10分ほど、史跡と称念寺は直線距離で7kmほど離れています。

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