江戸時代におこった幽霊や妖怪などの怪談話ブーム

江戸時代には、「東海道四谷怪談」や、「皿屋敷」など、現代においても有名な怪談話がブームとなった時代である。「東海道四谷怪談」のお岩や、「皿屋敷」のお菊は、当時誰もがその名前を知る幽霊界のトップスター的存在であった。幽霊をめぐる多くの怪談が日々高座にかけられ、歌舞伎では生々しく恐ろしい復讐のシーンが再現され、それを描いた浮世絵が大量に世の中に流布した。現代のジャパニーズホラー映画などにもその文化の反映は大きく、日本人の生活に強く影響を与えている。

■幽霊と供養

幽霊の出てくる怪談話では、たびたび話の重要なトリガーとなるのが「供養」である。供養とは、生者が亡くなった者のことを思い、心を込めて弔うことである。その弔いの有無が、幽霊の行動を左右する事がある。
十七世紀に出版された『諸国百物語』に収録された、二つの話を例に挙げる。

■安部宗兵衛の妻

最初に紹介するのは、安部宗兵衛という人物の妻の話だ。武士である宗兵衛はその妻を虐待し、食事をろくに与えることもなかった。妻が病気になった折にも薬を飲ませなかったため、彼女は十九の若さで亡くなってしまう。死の間際に、「この恨みは決して忘れない」と言い遺して妻は息を引き取ったが、宗兵衛は死体を山に放棄して、弔いをしようともしなかった。その後、妻のことをすぐに忘れて愛人と共に生活をするようになる。妻が死んで七日目の夜中、宗兵衛が愛人と寝ていると、妻が恐ろしい形相の幽霊となって現れ、その愛人をバラバラに引き裂いた。妻の幽霊は「明日の晩、また来て恨みを晴らそう」と言って姿を消す。宗兵衛は恐ろしくなり、僧侶を呼んで祈祷をさせ、夜には弓や鉄砲などを用意して、妻の幽霊の復讐に備えた。しかしそれらの武器は幽霊には何の意味もなさず、妻の幽霊は宗兵衛を二つに引き裂いて殺し、周りにいた下女も蹴り殺し終えた後、天井を破って空へと昇っていった。

■大森彦五郎の妻

次に紹介するのは京都府の亀山に住んでいた大森彦五郎という侍の妻の話である。その妻はたいそう美人で、彦五郎は妻を愛していたが、妻はお産の時に亡くなってしまった。妻が亡くなったその後も、彦五郎は独り身を通していた。しかし周囲の強引な勧めで三年後に再婚した。その彦五郎の後妻は、とてもよくできた人で、亡くなった最初の妻のことを懇ろに供養した。最初の妻は双六遊びがとても好きで、亡くなった当初は毎晩幽霊となって出てきては下女と双六遊びに興じていた。しかし、やがて周囲の心遣いに感じて、幽霊として現れることをやめた。後妻は双六の盤を作って、最初の妻の墓に供えた。

■怪談話から感じる供養の大切さ

最初の宗兵衛の妻の話から、幽霊の復讐の原因が、生前の夫宗兵衛の非情な行いと供養の放棄であることが分かる。一方で、双六遊びが好きな彦五郎の妻の話では、亡くなった当初こそ双六への未練で幽霊として現れたものの、彦五郎や後妻による丁寧な供養により、顕現することはなくなった。幽霊の行動を左右するのは供養の有無であり、それはつまり、死者への思いやりの有無でもある。死者を蔑ろにすることなく、大切に供養することが、亡くなった者の心を癒すとされていたことが分かるだろう。

■参考資料

佐藤弘夫 著『人は死んだらどこへ行けばいいのか: 現代の彼岸を歩く』興山社 2021年5月

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