武勇伝的逸話が残されている熊本県出身の天才陸軍士官【シリーズお墓から郷土の偉人発見 VOL.15】

津野田さんは1873年に熊本県で熊本藩士の津野田是秋の長男として生まれました。1904年には乃木将軍に気に入られたため、第三軍編成と同時にフランスから呼び戻され、第三軍最年少参謀(司令部・当時は大尉)となりました。 エリート街道を進んでいました津野田さんですが、いろいろな逸話を残しており、頭が良すぎたために大正8年少将になったとたん陸軍辞めさせられたといいます。のちに1920年の衆議院選挙に立候補し当選しました。政友会に属し枢密顧問官を任ぜられたといいます。 津野田さんの武勇伝的逸話は数多く残されており。日清・日露戦争を主題とした小説「坂の上の雲」の作者・司馬遼太郎は「日露戦争中、天才と呼べる人物は最高位で児玉源太郎、最下位で津野田是重であったかもしれない。」と記しています。

【乃木第三軍作戦参謀での逸話】 
津野田さんは当時、一番若い参謀の中でした。若いだけなら良かったのですが、乃木司令官に向かって「以後、作戦には口を出さないで下さい!」と言ったといいます。 ちなみにこの後、横で聞いていた伊地知参謀長に別室に連れていかれてさんざんに叱られたそうです。 頭が良く早熟系のエリートでしたが、「日本人には珍しく明朗な青年将校」と、イギリス軍観戦武官のハミルトン中将に評される程、明朗な人物でした。加えて、率先して前線に出て、敵地視察を行ったという剛胆な人物という話もあります。

 奉天会戦の際、彼が出向した第一師団で大々的な潰乱が起こるのです、まごまごしていた機関砲(銃)担当の指揮官に代わって自ら軍刀を抜いて指揮し、前線ロシア軍を退却させたという話があります。 参謀に指揮権はなく、彼のこの行動は後の参謀達の勝手振る舞いの先駆けになったといわれ、非難されました。しかしこの「勝手振る舞い」が、第一師団を全滅の危機から救ったと言われています。ちなみに、この際に彼が発したとされる言葉、「一斉に薙げぇっ!」が軍事用語「薙射(ていしゃ)」の語源とされています。

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◆取材協力
歴史が眠る多磨霊園
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/
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