1990年代に日本の女子テニス界をけん引した沢松奈生子という選手をご存じだろうか。兵庫・西宮市出身で、95年1月の阪神大震災では自宅が全壊。全豪オープンに出場中だった沢松は家族と連絡が取れないなか、四大大会では自己最高となるベスト8に進み、大きな話題となった。
当時、沢松を取材したことがあるが、今でも覚えている言葉がある。テニスのWTAツアーは世界各地を転戦するサーキット方式で行われるが、多くの選手は単独で行動していた。マネジャーやトレーナーが帯同し、チームとして動いているのは、ほんの一握りのトッププレーヤーたちだけ。テニス一家に生まれ育ち、1975年のウィンブルドン女子ダブルスを制した沢松和子を叔母に持つ、自宅にテニスコートがあった“名家のお嬢さま”も、その他大勢の一人だった。
「航空券や移動の手段、宿泊先はすべて自分で手配します。炊飯器を持参して、おにぎりを作ったりもします。頼れるのは自分一人。全部自分でやらないといけない。お金もかかることなので、それが当たり前です」
スマホなんて便利なものは影も形もなかった時代。飛行機に乗るときには予約の再確認を電話などで行うリコンファームなんて面倒なシステムもまだあったと思う。試合に出るためには、まず生きる術(すべ)を覚えないといけなかった。
先週の「大王製紙エリエールレディス」は台湾出身で、2022年11月のプロテストに一発合格したウー・チャイェンがトータル15アンダーでツアー初優勝を果たした。ひさしぶりに取材をして驚いたのが、日本語の上達ぶりだ。優勝会見は通訳なし。「最初はオンラインの先生がいて、日本に来てからは、選手やキャディさんとかと話して、たくさん教えてもらいました」。台湾にいるときから日本語の勉強をしていたわけではない。始まりはプロテスト。来日してからは積極的に選手の輪の中に飛び込み、異国の文化に触れ、わずかな時間で流ちょうな日本語を話せるようになった。
たくましい21歳を見ていて、30年以上も前に沢松が話していたことをふと思い出した。競技には直接は関係ないように思えるが、“生きる力”を身につけることは、人としても、選手としても強さの源になると改めて感じた。
エリエールには今季、米下部のエプソン・ツアーを戦い、来季のLPGA昇格を決めた原英莉花も出場していたが、彼女にも同じような強さを感じた。決して恵まれた環境ではない下部ツアーを原は「人生で一番楽しかった」と話した。常にサポートを受ける日本では決してできなかった経験。原もたくましくなった一人だ。
女子プロゴルファーもかつては沢松のように一人で日本全国を回っていた。宅配便もなくキャディバッグと大きな荷物を持って移動していた。東京駅を利用することが多かった選手の一人は「ホームにポーターさんがいて、タクシー乗り場まで荷物を運んでもらっていましたね。荷物一個で500円だったかな。重くて階段の上り下りはさすがに一人では無理だったけど、お願いするのは1個だけ。全部はお金がもったいなかったから」と話してくれた。泊まるところも旅館が多く、和室にほかのプロと呉越同舟の雑魚寝なんてのはザラだったという。食事は常に先輩プロと一緒。1988年にツアー制度が施行されるずっと前の話である。選手同士が一つのチームだった。
今の選手の周りには親がいて、コーチがいて、マネジャーもいて、トレーナーもいる。そういう時代になった。そこを否定する気はさらさらないし、「若いころの苦労は買ってでもしろ」なんて声高に叫ぶつもりもない。苦労なんてしないに越したことはない。年間女王となった佐久間朱莉もチームで行動している。チームで戦うことで、ゴルフに集中できる環境づくりが整う。佐久間に限らず、周囲のサポートが最大限のパフォーマンスを引き出す力になっている。
沢松は苦労話をしているつもりはなかったと思う。それが日常でフツーのことだったから。時代とともに万事変わる。でも…と思うときがある。親やマネジメント会社のスタッフがキャディバッグを運んだり、荷物の片づけをしたり…。その横をスマホ片手に歩いている選手の姿を目撃してしまうと、違和感を覚える。親やマネジャーはポーターや付き人ではないのだから。
便利なゆえに窮屈な時代でもある。今は今なりの苦労もあるだろう。そんな時代に覚悟を持って、ウー・チャイェンも、原も自ら環境を変えた。そういう選手は無条件に応援したくなる。(文・臼杵孝志)
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