シベリアの戦友、今も凍土に=飢えの抑留、苦難の4年―99歳男性「遺骨早く返して」・北海道

 第2次世界大戦終了後、旧ソ連によってシベリアに約4年間抑留された吉田欽哉さん(99)=北海道利尻町=は当時の自分を「食べることしか頭にない野生動物のようだった」と振り返る。現地では仲間の遺体を埋葬した経験もある。戦後80年を経てもなお凍土に眠る戦友のため「遺骨を一つでも遺族に返してやりたい」と話す。
 吉田さんは1945年3月、19歳で旧日本陸軍に召集され、衛生兵として樺太(現サハリン)に配属された。玉音放送は豊原(現ユジノサハリンスク)にあった仮設病院で聞いた。「帰れる」と喜ぶ人や敗戦で泣く人などさまざまだった。
 ただ終戦にもかかわらず、8月下旬、豊原駅前でソ連の空襲を受けた。防空壕(ごう)を出て負傷者を駅近くの病院の地下室に運ぶと、既に多くの重傷者がいた。「痛い」「助けて」。うめき声は今も脳裏に刻まれ、耳鳴りにも苦しむ。
 9月上旬、「北海道に帰れる」という話が所属部隊に届いた。豊原から大泊(現コルサコフ)に移動し、ソ連のタンカーに。ただ船は北へ進み続け、捕虜にされたと分かると動揺が広がった。
 着いたのはソ連の港町ソフガワニ。収容所のベッドの柱には虫が湧いており、刺されるとかゆくて仕方なかった。数週間シャワーも浴びられず軍服の襟にもシラミが湧いた。
 配給は朝と晩が黒パン1切れで、昼はスープだけ。摘んだ草をスープに入れ、木の皮を刻んで煮て食べた。抑留生活から約2年後、空腹に耐え切れず、隠し持っていた腕時計をソ連兵側に渡して黒パンを手に入れた。
 慢性的な栄養失調が続く中、伐採などの労働を強制された。夜に話をした仲間が、翌朝には隣で亡くなっていたことも。作業場への移動中に誰かが倒れても、助ける余裕はなく全員が素通りした。
 仲間の遺体を埋葬したこともあったが墓石すらなく、「必ず迎えにくる」と手を合わせることしかできなかった。
 各地を転々としたが、49年夏のある日、収容所の広場に呼び出されると帰国者の名前が発表された。名前が呼ばれた時、感極まって、どう立ち上がったかは思い出せない。帰国後は故郷の利尻島で漁師になった。
 2015年、元抑留者の支援団体による講演会への参加を機に語り部になった。19年には厚生労働省などが実施する遺骨調査でロシアを訪問し、埋葬地の調査に加わった。
 ただコロナ禍などに伴い現地調査は20年度以降中止が続き、残された遺骨は約3万3000柱に上る。吉田さんは「自分だけ生きてきて申し訳ない」と自責の念を吐露する一方、「国の責任で早く収集してほしい」と訴えている。 
〔写真説明〕インタビューに答える元シベリア抑留者の吉田欽哉さん=4月12日、北海道利尻町
〔写真説明〕取材に応じる元シベリア抑留者の吉田欽哉さん。左奥は、全国からの寄付で吉田さんが建立した抑留者の慰霊碑=4月12日、北海道利尻町

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