高齢の残留孤児、介護で支援=中国語対応施設運営の2世―戦後80年

 終戦の混乱で中国に取り残された後、帰国した残留孤児の高齢化が進んでいる。言葉の壁から日本の介護施設になじめない孤児らのため、残留孤児2世の上條真理子さん(46)は、中国語に対応した介護施設を開いた。
 埼玉県所沢市の通所介護(デイサービス)施設「一笑苑」では7月、利用者10人が体操やレクリエーションを楽しんでいた。「イー、アル、サン、スー(1234)」。飛び交う言葉はほとんど中国語だ。
 利用者約30人の半数以上が残留孤児やその配偶者らで、日本語が全く話せない人もいる。上條さんは利用者と中国語で語らいながら、「自分の親と思って接している」と笑顔を浮かべた。
 上條さんが介護事業を始めたきっかけは、7歳で残留孤児になった父充彦さん(87)だ。
 充彦さんは1938年に長野県で生まれた後、北京などで暮らした。終戦後、旧満州(中国東北部)の親戚宅に身を寄せていたところ、「両親に会える」と持ち掛けてきた人にだまされ、養父となる中国人男性の元に連れ去られた。養父は盲目で「目の代わりだった」と振り返る。
 学校に通えず、13歳から理髪の修業をして働いた。「ずっと日本に帰りたかった」。充彦さんは涙を流した。
 83年ごろから日本大使館に届け出て、肉親捜しを始めた。日本語は忘れ、名前も生年月日も正確に覚えていなかったが、名字の一部が「カミ」で、諏訪湖で遊んだことや妹が腕にやけどをしたことなどが手掛かりとなり85年夏、日本に残っていた兄と再会。兄も長年、充彦さんを捜していた。
 翌年の一時帰国で両親らと対面し、「うれしさは言葉にできないほど」(充彦さん)だった。95年10月、充彦さんが57歳、上條さんが17歳の時、家族4人で日本に移った。
 約2カ月後、充彦さんは脳出血を起こし体に障害が残った。70代ごろからは介護が必要となり、デイサービスを利用するようになった。
 ある日、充彦さんは施設での出来事を家族に打ち明けた。入浴時間に服を脱いだまま放置され、寒くても日本語が分からず助けを呼べなかった。「自分の人生は戦争で狂った」。泣きながら話す充彦さんに、上條さんも涙があふれた。
 「何かできないか」。介護福祉士の資格を持っていた上條さんは2016年、中国語対応の訪問介護事業を知人と開始。残留孤児らの居場所をつくろうと、18年には自宅を改装して一笑苑を始めた。
 「ここでは要求が全て言える」という充彦さんは、「悪い運命と思っていたが、幸せを感じる」と穏やかな表情。上條さんは「私の使命として、残留孤児たちの人生を支えたい」と力強く語った。

  ◇中国残留孤児を巡る動き
1931年 9月 満州事変が勃発
  32年 3月 関東軍が満州国建国を宣言
  37年 7月 日中戦争始まる
  45年 8月 旧ソ連が旧満州などに侵攻。終戦
  72年 9月 日中国交正常化
  81年 3月 肉親を探す訪日調査開始
2007年11月 改正残留邦人支援法が成立
  14年 3月 厚生労働省、中国語対応の介護事業所公表
  17年 4月 中国語ボランティアの施設訪問事業開始。 
〔写真説明〕中国残留孤児らが利用する通所介護施設「一笑苑」で、利用者と体を動かす残留孤児2世の上條真理子さん(左端)=7月2日、埼玉県所沢市
〔写真説明〕国民学校に通っていた頃の上條充彦さん=1945年(上條真理子さん提供)
〔写真説明〕中国での生活を振り返り、涙を流す残留孤児の上條充彦さん(左)。右は長女真理子さん=7月2日、埼玉県所沢市

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