
太平洋戦争の敗色が濃くなる中、旧日本軍は本土決戦への準備を進めた。その中には大本営などを東京から長野県松代町(現長野市)などに移す計画もあり、工事は終戦当日まで続いた。工事は未完に終わったが、光景は今も住民の記憶に残る。
同市の真島吉信さん(96)は1945年4月、松代商業学校(現松代高)3年の時に松代町の隣村にある舞鶴山で工事に動員された。何も知らされないまま学校に毎朝集まってから出勤。学生を仕切る工兵隊員から作業を指示された。
休みは1日もなく、岩を砕いて掘り進められた坑道に上下水管を埋設し、駅に届く建設資材を資材置き場まで運んだ。コンクリート補強に使う砂利を集めるため、トラックに学生数人で乗り込み近くの千曲川へ行くことも多々あった。
昼食に日の丸弁当を持参したが、ひき割り麦を混ぜたご飯では腹持ちしなかった。空腹を紛らわすため、隊員に言われたまま発破用のダイナマイトを盗んで口にしたら「甘くておいしかった」。
舞鶴山では、地下壕(ごう)に大本営が、地上部には天皇陛下が生活する「御座所」がそれぞれ設置される予定だった。ただ、真島さんらが知らされることはなく、学生や住民らの間では「天皇が逃げてくるらしい」とのうわさが流れていた。
ある日、同級生数人と山の中腹に建てられた建物に忍び込んだ。内部は突貫工事だが丁寧な造りで畳も敷いてあった。うわさは真実味を帯びた。
終戦の2日前、同市の飛行場などが米軍に空襲され、「もう終わりだ」と諦めの気持ちが芽生えた。玉音放送が流れた15日も作業に行ったが、その後は後始末にも呼ばれず日常に戻った。
別の地下壕がある松代町の象山の麓に住んでいた大久保幸雄さん(92)=同市=には忘れられない光景がある。ある時、日本人に連れられて歩く朝鮮人男性を見た。病院への途中とみられ「血だらけになって歩いていた」。危険を伴う工事で、けが人が1人だけで済んだとは思えなかったという。
工事に伴う発破音は家にいても四六時中聞こえた。「ドーン、ドーン」。体に響く不気味な低音は今も耳に残る。終戦後、象山地下壕に初めて入り、暗く広い内部を友人らと歩いた。「山を貫通するなんて大変なことをやったものだ」と驚いた。
象山地下壕は一部が公開され、掘削の跡を見学できる。当時を知る人が少なくなる中、大久保さんは「戦争は絶対悪。それを後世に伝えられる歴史的財産だ」と話している。
〔写真説明〕松代大本営地下壕の工事に参加した体験を話す真島吉信さん=5月24日、長野市
〔写真説明〕舞鶴山で建設が進められた天皇の「御座所」=5月27日、長野市
〔写真説明〕象山地下壕の近くで記憶をたどる大久保幸雄さん=5月23日、長野市
〔写真説明〕政府機関の移転予定地だった象山地下壕の内部=5月22日、長野市