米軍が80年越しに返還!「激レア日本戦車」が里帰り ポイントは攻撃力を増した新砲塔

2025年3月下旬、太平洋戦争で日本軍の主力戦車であった九七式中戦車(チハ)が横浜港に到着し、80年ぶりの里帰りを果たしました。ただ、この「チハ車」、これまで国内で保存展示されている同種の車両とは大きな違いがありました。

80年ぶりに里帰りした日本戦車

 2025年3月24日の午後、1両の日本戦車がアメリカから80年ぶりに里帰りを果たしました。筆者(吉川和篤:軍事ライター/イラストレーター)は、関係者の好意で、横浜港での貨物船からの陸揚げ、そして静岡県御殿場市までの陸送の一部始終を取材させてもらいました。

 このたび横浜港に到着したのは、旧日本軍の九七式中戦車です。この戦車は、三菱重工が1937(昭和12)年に試作したもので、「チハ車」の略称でも知られます。これは、中戦車を表す「チ」と、3番目に開発されたことを示す「ハ」(イロハニホヘト順)からなる開発符号で、それまで旧日本軍の主力戦車であった八九式中戦車の後継として誕生しています。

 開発当時の対抗馬には、九五式軽戦車(ハ号)をベース案に、より小型で安価な量産しやすい3人乗りの試製チニ車(チ:中戦車、ニ:4番目の開発車)も大阪工廠で開発されています。そして、各種試験で両者を比較した結果、チハ車が優秀な成績を出したことから見事、制式採用されました。

 ただ、採用の裏には、同年7月7日より始まった日中戦争も大きく影響していました。中国大陸で戦火が上がる前は、性能うんぬんよりも数を揃えられるチニ車を優先すべきという論調も旧陸軍内にはあったからです。しかし戦争が始まったことで、陸軍参謀本部や陸軍省も平時の慎ましい金銭感覚から戦時体制にシフト。結果、軍事予算も青天井となったことなどにより、チニ車より高価で大重量ながら、高性能かつ強力なチハ車に軍配が上がったのです。

 こうして採用された九七式中戦車(チハ)は、三菱重工だけでなく陸軍相模造兵廠や日立製作所、日野重工業などで各型合計2208両が生産され、太平洋戦争が終わるまで日本軍の主力戦車として様々な戦線で多用されました。

 このたび里帰りした九七式中戦車も、こうして生産された2208両のうちの1両には違いないのですが、これまで日本国内で保存・展示されていたチハ車とは大きく異なります。

 日本国内には、都心の靖国神社にある遊就館と、静岡県富士宮市の若獅子神社に1両ずつ合計2両の九七式中戦車が現存します。しかし、今回、横浜港に到着した車体は、武装が一新され、それに伴って砲塔も大型化された、いわゆる「新砲塔チハ」なのです。

新47mm砲、じつは別戦車に積む予定だった?

 九七式中戦車改、「新砲塔チハ」が生まれたきっかけは中国大陸での戦訓からでした。

 そもそも、開発当初、チハ車には短砲身の九七式57mm戦車砲が搭載されていました。この砲は敵兵が潜む陣地などを潰すのが主な用途で、歩兵の進撃支援用としては充分だったものの、想定されるソ連赤軍との対戦車戦では非力でした。

 そこで、制式化から時間を置かず、1939(昭和14)年頃から早くも次の主力戦車である九八式中戦車(チホ)の開発が計画されます。これは前出のチニ車とチハ車をちょうど“足して2で割った”といえるようなもので、乗員もチハ車の4名に対して3名と少なく、重量も10t級でした。搭載する砲塔は新型の馬蹄形で、そこに戦車戦を意識した長砲身の37mm砲、もしくは47mm砲、または57mm戦車砲、3種類の搭載が検討されています。

 比較の結果、最終的に試製九七式47mm砲(後の一式機動砲)が新たな戦車砲として開発されます。ちなみに、この戦車砲の開発は1939年6月に決定しましたが、これは同年7月に始まる第二次ノモンハン事件の1か月前であることから、従来言われていた「ノモンハン事件でソ連戦車を相手にした機甲戦が、新型戦車砲の開発契機になった」という説とは異なるといえるでしょう。

 この47mm一式戦車砲は、一見すると、既存の57mm九七式戦車砲より口径が10mm小さいため、劣っているように思われるかもしれません。しかし、長砲身化により初速が倍以上の810m/秒(57mm九七式戦車砲は350m/秒)となり、距離1800mで厚さ50mmの防弾鋼板を貫通する性能を持っていました。そのため、対戦車能力は飛躍的に向上しています。

 しかし、搭載予定だった九八式中戦車(チホ車)の対戦車能力が全体的に不足していたため、量産計画が見直された結果、中止となり、逆にチハ車の武装と防御、走行性能を強化した一式中戦車(チヘ)の開発計画が1941(昭和16)年より始まります。その一方、手始めに既存のチハ車68両に、チホ車用として製造されていた新型戦車砲と専用砲塔の搭載が決定。こうして、新砲塔チハまたは九七式改と呼ばれる47mm戦車砲搭載タイプが誕生しました。

 新設計の大型砲塔は試製チホ車とは異なり、正面左側の砲塔銃は大きく張り出して砲塔銃(機関銃)も後部の左側に移動します。砲塔後面に見える装甲蓋(ハッチ)は戦車砲の出し入れ専用で、内側に30発入りの砲弾ラックが設置されました。また砲塔上面左側には乗降ハッチも新設され、搭乗員も2番砲手を加えて最大5人までに増員しました。

 また新砲塔チハでは、それまでのチハ車の外見的な特徴であるハチマキ式アンテナに代わり、直線アンテナが車体後部に設置されたことで、砲塔上もスッキリしたデザインになっています。生産数は417両ですが、大阪工廠での一式戦車砲の生産が遅れたことにより、旧式の57mm戦車砲の生産も続行されています。

「新砲塔チハ」のレストア 目途は?

 今回、里帰りした九七式中戦車(チハ)は、戦後長らくアメリカ海軍の所有物、すなわち米国有資産として、テキサス州にある太平洋戦争国立博物館で保管されてきました。

 そのようななか、静岡県御殿場市で活動するNPO法人「防衛技術博物館を創る会」(小林雅彦代表理事)が同戦車の存在を知ったことで、日本に返還してもらえないか交渉をスタート。数年に渡る粘り強いやり取りの結果、最終的に所有権の譲渡が認められ、日本への帰国が実現したのです。

 しかし、15t近い重量物を海上輸送する費用はそれなりに掛かるうえ、昨今の為替レートの変動と国際情勢の変化による物価高騰によって算段が狂い始めます。加えて、予定していた港が使えなくなり、米本土を陸路で輸送する必要が生じたなどで、見積りは交渉を始めた頃より値上がりして1000万円を超えるようになりました。

 それでも、今年(2025年)2月に終了したクラウドファンディングで全額の集金に成功しており、いかに日本国内で新砲塔チハの帰還を待ち望む声が大きかったか、知らしめることにもつながりました。

 現在、「防衛技術博物館を創る会」は、戦後に民間転用された九五式軽戦車ベースの更生戦車(ドーザー車)のレストアを実施中です。また、同NPOはすでにレストア作業を終えた九五式軽戦車や九五式小型乗用車(くろがね四起)などの実物車両も所有しており、将来は、御殿場市に建設を予定している「防衛技術博物館(仮称)」での動態保存と展示を目指しています。

 今回、里帰りした九七式中戦車(チハ)は幸いにもオリジナルのエンジンや変速機などの走行装置が車内に残っています。また、操縦席周りのレバーやペダル類など欠落した部品の再生、さらには法律の絡みでアメリカに残された47mm戦車砲のレプリカ製作も含めて、3年程のレストア作業で復活する予定だそうです。

 とはいえ、これら作業には原資が必要です。そこで現在、前出のNPO法人では、毎月500円や1000円の支援を行うマンスリーサポーターを募集しています。もし、レストアがうまくいけば、再び走れるようになった九七式中戦車改(新砲塔チハ)の力強い姿を間近で見られるようになるかもしれません。

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