
最初の開通から130周年の西武新宿線、110周年の西武池袋線。両者はかつて別々の私鉄で、極めて仲が悪い関係でした。両路線が交わる街には、“争い”の歴史が刻まれています。
川越鉄道130年、武蔵野鉄道110年、いつ仲悪く?
2025年は西武鉄道にとって節目の年です。現在の国分寺線と新宿線の一部(東村山―本川越)が「川越鉄道」として全線開通して130年を迎えたほか、現在の池袋線 池袋―飯能間が「武蔵野鉄道」として開業してから4月で110年になります。記念ヘッドマークの作成など、周年を盛り上げる企画が実施されています。
川越鉄道はその後、現在の西武鉄道とは別組織の通称「旧西武鉄道」となり、新宿線の高田馬場―東村山間にあたる「村山線」を開業し、都心直通を果たします。この村山線も、4月には98周年を迎えます。
ただ、この新宿線系統の旧西武鉄道と、池袋線系統の武蔵野鉄道はかつて、熾烈な争いに明け暮れたライバル関係でした。その争いの舞台の一つが、両社が交差した「所沢」です。
村山線の開通により、2つの都心直通路線が乗り入れることとなった所沢駅ですが、その管理は古くから駅を構えていた旧西武鉄道が行っていました。
当時、旧西武の駅員は都心へ向かう旅客に対して、高田馬場経由のきっぷを販売していたといいます。しかし、運賃がほぼ同額なため、乗客は武蔵野鉄道で池袋へ出ていたとか。
つまり、「運賃は旧西武鉄道に入るが、実際に乗客を輸送するのは武蔵野鉄道」(老川慶喜『堤康二郎』)という有様で、武蔵野鉄道が抗議しても改められず、駅員どうしの殴り合いまで発生していたといいます。
両社に加え、多摩湖線の前身である多摩湖鉄道を含めた3社が村山貯水池(多摩湖)に路線を延ばし、乗客を奪い合ったことも知られています。東村山市・所沢市付近における西武線の複雑な路線網は、3社が路線を延ばし合った歴史を反映しているのです。
そして、実は所沢市街にも、旧西武鉄道と武蔵野鉄道が乗客を奪い合った2つの駅がありました。それらはいずれも廃駅となっています。
「パクリじゃないか!」と言ったか言わぬか“名前が似すぎ”な2駅
武蔵野鉄道(現在の池袋線)の所沢市街の廃駅は、秋津から北西へ向かってきた列車が、所沢駅の手前で進路を南に変える、その途上にあります。これも、武蔵野鉄道が所沢の乗客を取り込もうとしたものだそう(老川慶喜『堤康二郎』)。
1938年2月、地名から「松井村駅」として開業したものの、3月にはすぐ「所沢飛行場駅」に改称。この年に所沢飛行場には陸軍整備学校が開設されており、最寄り駅として整備されました。跡地には現在、松井まちづくり協議会が立てた駅跡を示す標柱が設けられています。
すると旧西武鉄道(現在の新宿線)は6月、ほとんど名前が同じの「所沢飛行場前駅」を、所沢駅の北側に開設。戦争が激しくなると、施設名を隠す目的で所沢飛行場駅は「東所沢駅」(現在のJR東所沢駅とは無関係)、所沢飛行場前駅は「所沢御幸町駅」に改称されました。
やがて旧西武鉄道は、武蔵野鉄道の堤康二郎が経営を掌握し、両社は合併へと舵を切ります。飛行場から遠かった東所沢駅は戦況の悪化に伴い1945年2月に休止され、そのまま再開されず廃止となりました。
所沢御幸町は「新所沢駅」に←誰も信じてない!?
一方の所沢御幸町駅は、市街地から飛行場へ向かう飛行機新道の途上にあり、利用者も比較的多く存続しました。しかし、1951年、飛行場を接収した米軍基地へ通じる側線の貨物輸送の関係で、北側へ約2km移転。「北所沢駅」を名乗り、8年後に「新所沢駅」へと改称し現在に至っています。
このため新所沢駅の前身が所沢御幸町駅という扱いではあるものの、その場所は離れすぎているためか、地元では同一視されず、所沢御幸町駅の存在が語り継がれているようです。
この駅は東川を渡る橋梁の北側、擁壁の上にホームを設け、そこから階段で地上へ下りる構造でした。しかし、1967年の複線化の際、擁壁も複線仕様に拡幅され、駅跡はなくなりました。駅のあった場所には現在、ただ高い擁壁があるのみです。
その後、1987年には所沢-新所沢間に「航空公園駅」が新設されたため、“所沢御幸町駅が移転して新所沢駅になった”という書類上の関係性は、ますますピンとこないものとなりました。