撃墜数は352機!? ドイツ軍最高のエース、ハルトマンが驚異的数字を叩きだしたワケ

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第2次世界大戦のトップエース、エーリヒ・ハルトマン。彼はなぜ300機を超える戦果を挙げることができたのでしょうか?

「黒い悪魔」と恐れられた若きパイロット

 1922年、ドイツ南部で生まれたハルトマンは飛行機好きの少年として成長しました。1940年に18歳でドイツ空軍に入隊、射撃訓練では優れた技能を見せたものの、たびたび規律に違反したため、昇進は仲間よりも遅かったといいます。

 そんなハルトマンの輝かしい実績の始まりは1942年10月にやってきました。前年6月にドイツはソ連へと侵攻を開始していましたが、少尉となっていたハルトマンにもようやく初出撃の機会が巡ってきたのです。

 初陣こそ、僚機を敵と勘違いしパニックを起こすという失態を演じたものの、その後11月には初撃墜を記録、そこから実戦経験を積み重ね、彼は多くの敵機を撃墜できる技量を身に付けていきました。

 彼が得意とした戦法は「一撃離脱戦法」。敵機の後方上空から攻撃を加え、撃墜できたかどうかに関係なく、その場を一気に離れるという戦法です。敵を撃墜するまで攻撃を行う格闘戦では、高い操縦練度が要求されると同時に、敵機からも攻撃されるリスクが大きく、死傷率が高くなりがちですが、この一撃離脱戦法であれば、格闘戦のような高い操縦練度は必要なく、また敵に反撃される恐れも低かったのです。

 彼はこの戦法により、驚異的なスピードで撃墜数を積み上げていきました。翌年9月には撃墜数100機を達成、その約1カ月後には150機を撃墜するにいたります。このころ、ハルトマンの愛機の機首には、黒いチューリップが描かれており、ソ連軍パイロットはそれを「黒い悪魔」と呼んで、恐れたといわれています。

 彼は1944年8月25日に300機の撃墜を達成。1945年5月の敗戦までに、最終撃墜数は352機にのぼり、この記録はいまだ破られることはなく、彼は「撃墜王」として、その名を残すことになりました。

1405回も出撃! 驚異の撃墜数を生んだ背景

 さて、このハルトマンが、なぜ撃墜王になることができたのか、それには彼の技量のほかにもいくつかの理由がありました。

 まずは、その出撃数の多さです。彼は1942年の初出撃から終戦までの約2年半のあいだに1405回の出撃を行っています。これは、平均すると2日あたり3回の出撃を行っていることになります。

 また出撃回数だけでなく、実際に交戦した回数も825回で、出撃したうちの約6割で敵と交戦していることになります。これは、内陸で比較的近距離ということが大きく関係しています。

 日本海軍も同様に多数の出撃を行っていますが、その戦場は南太平洋であったり、本土から離れた島嶼であったりと戦場までの往来に時間がかかり、日に何度も出撃することはあまりありませんでした。

「僚機を失わなかったことを誇りに思う」

 さらに、ハルトマンが撃墜王になれた理由がもうひとつあります。それは、戦場が陸地の上だったことです。生涯撃墜数が352機というのは有名ですが、彼は実は不時着および被撃墜の合計数も16回と相当な数に上ります。

 もし戦場が太平洋の洋上や島嶼部であれば、撃墜された際に落ちる先は、助かる見込みの少ない海の上です。実際、日本軍パイロットは、海上に着水したものの、サメにやられてしまった、という話も数多く残されています。

 その点で、独ソ戦の戦場はほぼすべて陸上。一撃離脱戦法が失敗し、相手に攻撃され、撃墜されたとしても、無事脱出し、基地に戻ることができれば、また出撃が可能というわけです。そのうえ、戦場は基地からそう離れておらず、徒歩で帰ることもあったといいます。地上には味方も多いとあって、彼は16回の不時着・被撃墜記録の中で、一度も負傷したことはないそうです。

 日本軍やアメリカ軍では、撃墜記録が100機を超える人物は稀なのに対し、ドイツ軍パイロットは100機撃墜してようやく1人前という風潮ができ上がったのは、こういった理由からです。

 とはいえ、ハルトマンの記録はやはり前人未踏。彼がここまでの記録を打ち立てることができたのは、もともとの射撃の腕がずば抜けていたことや、戦術を研究し新たな戦法を打ち立てたこと、そして、何より自分と仲間の命を大事にしたことがあげられるでしょう。

 彼は、妻にあてた手紙の中で、「自分は歴代最高の撃墜数よりも、一度も僚機を失わなかったことの方を誇りに思っている」と語っています。自分の命と仲間の命を大事にしたからこそ、成し得た前人未踏の撃墜記録であったということができるでしょう。