1945年4月、第二次世界大戦終盤のヨーロッパ。ベルリン近郊まで迫ったソ連軍は、最後の大攻勢をかけるべく、ゼーロウ高地で「サーチライト作戦」を仕掛けます。びっくりするほど大失敗だったこの奇策はどのような作戦だったのでしょう。
名将ジューコフが考えた「光で敵を倒す」奇策
1945年4月、ベルリン近郊にあるゼーロウには、絶対にベルリンにソ連軍を入れまいとするドイツの精鋭部隊約10万人が展開していました。そこに対するのはソ連第1白ロシア方面軍約100万人。司令官ゲオルギー・ジューコフは冷静で知略に優れ、ソ連の指導者スターリンの信任も厚い将軍でした。
戦力差は明らかですが、高台に展開するドイツ軍に対し、ジューコフはソ連軍の被害を最小限にとどめるため、一計を案じます。そうして採用されたのが「サーチライト作戦」です。
サーチライト作戦は、その名の通り、たくさんのサーチライトで夜間に敵陣を照らし、攻撃してくる敵兵がまぶしさに目がくらんだところで、こちら側から攻撃してしまおう、という作戦です。非常に単純明快ではありますが、現代のようにレーダーなどが発達していない時代のこと、夜間にまぶしい光を当てられれば、目がくらむのは当然で、大きな成果が期待できたのです。
しかし、結果から見ればこの作戦は大失敗でした。ジューコフ将軍の公算と誤算を見てみましょう。
その数、140基! 前線にサーチライトの設置
人数で圧倒的に劣るドイツ軍は、奇襲効果を狙うため夜間に攻撃を仕掛けてくる。そう考えたジューコフはそれを食い止めるため、こちらも夜間の攻撃を仕掛けることを考えます。そこで大光量のサーチライトを使うことで、敵の目をくらまし、さらにはこちらの攻撃目標を明確にできると考えたのです。
攻撃開始は4月16日午前5時30分に設定されました。ジューコフの命令により、前日には前線に140基ものサーチライトが設置されました。ドイツ軍との距離は約2.5~3km。約200~250mの間隔で高さ約2mのサーチライトが設置されていきます。
しかしこの時、問題も発覚します。ゼーロウの地形は平坦ではなかったため、均一にサーチライトを照射することは難しく、どうしても暗い部分ができてしまうのです。また、一部ではライトが広がらず、直線に当たりすぎて光の筋になってしまい、やはり光の筋と筋の間は暗い影となりました。
そこでそれらの影の部分を照らすため、照明弾を使用することや、一部は曳光弾を使用することで攻撃目標を見失わないようにする、などの対策が考えられました。
午前5時。まずは大規模な砲撃が開始されます。2,000門にも及ぶ火砲、カチューシャの大砲撃です。周囲はまだ薄暗い時間ですが、砲撃は25分間にわたり続けられました。
そして、1基のサーチライトが天に向かって光を放ちます。これがすべてのサーチライト点灯の合図。一斉にソ連軍のサーチライトが敵陣を照らします。それは攻め込んでくるドイツ兵の目をくらませるはずでしたが、実際のところはそうなりませんでした。
140基のサーチライトが一斉点灯! しかし待っていたのは大誤算
サーチライトが照らし出したのは、もうもうと立ち込める塵と煙。風もなく穏やかだった4月の朝、舞い上がった塵や煙はその場に長くとどまり続け、サーチライトの光を妨げてしまっていたのです。
それでも一部の光は、敵陣に届き、ドイツ兵の士気を下げ、そしてソ連兵はその光を頼りに攻撃を行ったことが報告されています。しかし、それはごく一部のことだったようです。
多くのサーチライトが、塵や煙に阻まれてぼんやりとした光しか発することができなくなっており、そのせいで逆にドイツ軍は光源となるソ連軍陣地をはっきりと見ることができるようになっていたのです。敵の目をくらませるはずが、逆に自分の陣地を知らせる光になってしまったというのは、なんという皮肉でしょうか。
さらにいえば、最初の30分近くに及ぶ砲撃も、事前に察知したドイツ軍が主力部隊を前線から少し後退させていたため、大きな被害を与えることはできなかった、という事実ものちに明らかになりました。
また、ソ連軍の陣地の前にあった小さな川は、ドイツ軍によって氾濫させられており、目の前の泥濘によって、ソ連軍が進軍に苦労している間に狙い撃ちにされたという話も残されています。
しかし、もともと10倍もの戦力差のあった戦いです。結局は、ソ連軍が押し切る形でドイツ軍を破り、こうしてベルリンの防衛線は崩壊、最終決戦のベルリン市街の戦いへと移行していくことになりました。
報告によれば、ドイツ軍の戦死者は約1万人、ソ連軍の戦死者は約5,000人とのことですが、一説によると、この戦いでのソ連軍の戦死者は7万人以上とも言われています。
指揮を執ったジューコフは、ベルリン占領後、ドイツ駐留軍最高司令官となり、戦後は国防大臣にまで上り詰めることになる人物ですが、この失敗は、唯一の汚点として現代まで語られています。