全国に点在する城跡に接する鉄道は、ときに城を壊して線路を敷設するケースがあります。城を貫いた例を2か所紹介します。
甲府城を突っ切る中央本線
城跡に接する鉄道は全国の都市に点在しています。車窓から城跡が見える場所に絞って、中部から関西を見て行きましょう。
東京方面から中央本線の列車に揺られ、甲府駅へ到着する直前、車窓左手に石垣の姿が視界に入りました。甲府城です。
甲府城はいくつか別名があり、舞鶴城とも呼ばれていました。現在は舞鶴城公園と呼ばれています。武田氏の滅亡後に豊臣秀吉の命によって築城され、江戸時代は将軍家が代々城主となりました。しかし享保12(1727)年の大火で本丸御殿などが焼失し、将軍家が城主となった栄華は時代とともに失われ、明治時代を迎えると廃城となってしまいました。
城内の建物が解体されると農業や牧畜などの勧業試験場が設置され、そして中央本線の線路を敷設するため、ついに城内北側の清水曲輪などを解体し、甲府城は敷地の約3分の1が失われました。
車窓から間近に見える石垣は稲荷曲輪で、その奥に天守台を含めた本丸跡の石垣がそびえます。上空からだと、堀と城廓は北側が不自然に消えて中央本線の線路が存在しています。清水曲輪のあった場所は線路とホームに変わり、線路北側に山手御門が史跡となって残存しています。山手御門だけがポツンとあるのが不思議に思えますが、線路の場所が城内であったことを知ると納得です。
続いては中京圏。名古屋駅から北西へしばらく進んだ清洲城です。名古屋城ができる前まで尾張地方の中心で、1478(文明10)年に清洲は守護所に定められました。
清洲城といえば織田信長公です。織田信長は1555(弘治元)年から清洲城を居城にしました。織田信長と徳川家康の同盟が結ばれた「清洲同盟」、信長の死後の跡目を決める「清洲会議」と、清洲城はしばしば政治の舞台となり、さらに城下町の人口は6万人へと膨れ上がり、尾張の中心地として君臨しました。
関ヶ原の戦いが終わり、徳川家康は名古屋城を築城します。その際に清洲城を廃城とし、城下町ごと名古屋城へ引っ越す「清洲越し」が行われ、民族大移動のごとく6万人都市が一気に移転。清洲城は1613(慶長18)年に廃城となって、栄華を誇った城下町ともども消えました。
明治時代になると、清洲城跡の碑とわずかに遺構が残る程度の田畑に東海道本線が敷設されました。清洲城の本丸付近に線路が敷設されたそうで、ここも甲府城と同じように線路が城跡を分断したことになります。
大きく変化したのは1989(平成元)年のことで、五条川を挟んだ対岸に天守閣を復元して観光名所となりました。
この模擬天守閣が目印となり、車窓から一瞬だけ清洲城の位置が分かります。空撮では天守閣の存在のおかげで、遠くからでも場所が確認できました。なお、線路が城跡を貫くのは他にも存在し、有名なのは山陽本線の福山駅と福山城や三原駅と三原城の例があります。